ジェントルかっぱのブログ

読書、映画、美術鑑賞

【映画】『フラッシュダンス』 エイドリアン・ライン Flashdance (1983)

ブルース・リーの『燃えよドラゴン』を観たあとは叫んだり闘ったりヌンチャクを振り回したくなる。『フラッシュダンス』を観たあとは体を揺すったりポーズを決めたり踊ったりしたくなる。これは身体に働きかける映画なのである。

ストーリーは単純で、時々衝動的に暴力を振るうボーダーライン気味の下層階級の女の子が、金持ちで社会的地位が高い恋人のコネを使って底辺から這い上がるチャンスを得る、という話である。よく似たモチーフの話にリチャード・ギアジュリア・ロバーツの『プリティ・ウーマン』があるが、両者とも、白馬にまたがった王子様が苦しい自分の境遇から救い出してくれるという女性の願望充足がテーマの、少女漫画的作品であるといえる。

下層階級が主人公で踊りが素敵な映画といえば『ウェストサイド・ストーリー』だが、あの映画と違うところは登場人物は踊るだけで歌わず、その替わりにダンサーのプロポーションや筋肉、性的魅力といった身体面が強調されるというところであろうか。

燃えよドラゴン』はブルース・リーの肉体と動作と圧倒的な強さが血湧き肉躍るものだったが、『フッシュダンス』は吹き替えダンサーやストリートダンサーの、アーティスティックでキレのあるカッコイイダンスが、鑑賞者に爽快感を与えるものになっている。

ビョークの『ダンサー・イン・ザ・ダーク』は暗闇の中から出ることなく地獄の底に沈んでいくダンス・ミュージカル映画だったが、『フラッシュダンス』は天国から垂れてきた蜘蛛の糸が煉獄での生活から脱出する機会をもたらしてくれる、希望のある映画であった。

「結果は実力でつかむもの、だが機会は平等に与えられるべきもの」という理念が理想通りに実現する、観ていて安心できる映画である。

【美術鑑賞】『クラーナハ展―500年後の誘惑』 国立西洋美術館

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前回訪れたときには咲き誇っていたイチョウの葉っぱを風が散らかしながら秋から冬に移行しつつある上野公園、世界文化遺産に登録が決まって絶好調の国立西洋美術館にクラナハの絵を観にいった。

世には、表向きは実名のFacebookで日々意識高い綺麗事やリア充な写真をアップしながら、裏では匿名のTwitterで毒舌や悪口や誹謗中傷や表向きにできない性癖や趣味をつぶやく人がいるそうだ。クラナハの絵も、表の絵と裏の絵があって、その両者ともがレベルが高く見ごたえがあるものである。

クラナハの表の作品で見応えがあるものは肖像画であって、神聖ローマ皇帝カール5世(カルロス1世)の肖像も、マルチン・ルターの肖像も、モデルのそのままの姿を足しもせず引きもせず表現した力強い作品である。クラナハ自身の自画像もそうなのだが、彼の描く肖像画は力強く威厳があって格好いい。

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私が特に好きなのは、ルターの肖像画である。これが見れただけでも、展覧会に行った価値はあった。

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クラナハの裏の作品は暗黒の背景に浮かび上がって冷酷な表情を浮かべる裸の女性である。クラナハの描く女性は冷酷である。これは女性の顔がことごとく目が細いことが影響している。細い目から投射される視線はナイフのように鑑賞者に飛んできて観るものを切り裂く。

だから裏作品で魅力的なのはユディトやサロメであって、彼女らは男の首を切り裂き、それを誇らしげに見せつけるのである。ユディトは達成感に満ち溢れたドヤ顔で、サロメは美味しい料理を作ってごちそうを見せびらかすときのような良い笑顔である。

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クラナハの裏絵のテーマであるエロスとタナトス、このテーマは神聖ローマ帝国が後世オーストリアとなったときのウィーン、19世紀末のウィーンに活躍した二人の人物、ジグムント・フロイトグスタフ・クリムトを直接に想起させる。

クリムトタナトスよりもエロスが、クラナハはエロスよりもタナトスが強調されている。二人の差は興味深く、クリムトの女性が性的誘惑を直接感じさせるものである一方、クラナハの女性は誘惑者というよりは魔女や鬼女的なオーラを放っている。

男は女に対して欲望と恐怖を持っている。クリムトは欲望を、クラナハは恐怖をそれぞれのパースペクティブから表現したものなのだろう。

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おまけ。カラヴァッジオのユディト。屠殺中である。

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【映画】『惑星ソラリス』 アンドレイ・タルコフスキー Солярис (1972)

ドイツの神聖ローマ帝国は1000年続いたが、ロシアのソビエト連邦は70年しか続かなかった。25年以上前に失われた帝国であるソ連が次第に伝説化してゆくなかで、ソ連製のSF映画というのは、人をワクワクさせるものがある。

最初に驚いたのは、1972年のソ連のSF映画に、日本の首都高の映像が使用されていたことだ。総武線、赤坂トンネル、飯倉出入口。当時首都高が未来的なイメージがあったためだそうだ。今と変わらぬ首都高に70年代の古い自動車が走っている姿は現代から観るとレトロな感じしかしないが、あの立体交差が複雑に絡み合う構造は、言われてみると昔の絵本とかによくあった未来都市イメージを含有している。首都高は高度経済成長期の日本がオリンピックの肝いりで作った、最先端の未来都市道路インフラだったのだ。

SFというのは哲学と神話を基本構成とするジャンルであって、この映画は黄泉の国訪問譚とスワンプマン的な同一性思考実験を組み合わせたものである。古事記イザナギイザナミに会うために黄泉の国に行く話があるが、それを思い起こさせるものがある。

神話のシンボリックな解釈、物語構造を人間の心の仕組みに還元する解釈はフロイトが始めてユングが好んで用いたアプローチだが、知識階級において精神分析が一世を風靡した20世紀の芸術作品は、精神分析的構造を物語の構成基盤に織り込むということをよくやる。この作品はSF作品に名を借りた精神分析的物語でもある。主人公が心理学者という設定なのもそれを暗示している。

SFというジャンルは19世紀のヴェルヌの冒険譚のころは、主人公が未知の外的世界に冒険や探検をしに行くものだったが、第二次世界大戦以降の後半は精神分析的手法を借りて内的世界を外的世界に投影するものに変化した。この映画もその変化にのっとったものだろう。

主人公が探求する「ソラリス」は黄泉の国=過去の世界=自分の心の中であり、フロイトによれば無意識の中には時間がなく、過去の出来事が当時の感情と一緒に保存されているのだから、そこではその人にとって最も感情的な衝撃の強い出来事や人物、つまりコンプレックスが保存されていることになる。

ソラリスの海はエス、そこから物質化されてくる記憶の形象はコンプレックス、海の中に現れる小島は自我。そのどれもこれもが人に大きな影響を与える母親(グレート・マザー)、父親(老賢者)、配偶者(アニマ)である。

人間は過去=コンプレックスから自由になることはできない。ましてやそれが後悔、怨恨、自責などのネガティブな感情と結びついている場合、それは決して死なないゾンビのように、何度も何度もたちあらわれてくる。主人公はそこから離れることができず、最後はソラリスの島の中に退行して実家に閉じこもってしまうのである。これは精神分析的な症状発現の機序そのものなのである。

ラストシーンの徐々にカメラが引いていく演出は、スピルバーグの『マイノリティ・リポート』のラストによく似ていて、スピルバーグはこの映画から引用したのかもしれないと思われる。この映画は過去に束縛されるSFだったが、あの映画は未来を変更するSFだった。

【美術鑑賞】 『ゴッホとゴーギャン展』 東京都美術館

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ゴッホとゴーギャン展

上野公園はイチョウの木の葉っぱが燃えるように色づいていて、まるで黄色い花が満開に咲き乱れているようだった。

ゴッホのメインカラーは黄色だったから、もし彼が秋のイチョウの木を描いていたら、さぞかし迫力のあるものになっただろう。

本展はゴッホゴーギャンが共同生活をしていたことを軸にペアリングした展覧会で両者ほぼ同数の作品が展示されている。

ゴッホゴーギャンはメインとする色使いが対照的で、ゴッホは寒い地方出身なのに、絵画では原色に近い鮮やかな色を重ねるが、ゴーギャンは南国に逃避したのに、くすんで渋い色づかいが多い。ゴーギャンはモミジやカエデのような赤さの色がお気に入りのようだったので、もし彼が今の季節の日本に来たら、紅葉の風景を彼独自の色彩で描いたであろう。

どちらかというとゴッホを目当てで行ったため、気に入った作品はゴッホのものばかりになった。

静物画、風景画、どれも良かったのだが、とりわけ気に入ったのは《ジョゼフ・ルーランの肖像》で、花を背負ったヒゲモジャのおじさんで、ヒゲがゴッホの渦々タッチでうねうね、眼はまつげが丁寧に描かれていて可愛らしく、どこかユーモラスで、色彩は鮮やかだった。

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それと複数の子供たちが絵の前で模写ができるサービスを利用して、無心に絵を描いている様がとても心温まるものだった。幼少の頃からこういう本物を模写して見る目を養えるのは、とても羨ましい環境である。彼、彼女らからアーティストが生まれるのだろうか。良い企画である。

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【映画】『フランティック』 ロマン・ポランスキー Frantic

ポランスキーによるハードボイルドサスペンス映画。

主演のハリソン・フォードは外科医という設定なのだが、組織と対決するための戦闘スキルは戦略、戦術、判断力いずれも警察をしのぐ高さで、謎を追いかけて冒険をするパリに現れたインディ・ジョーンズにしか見えない。

ハリソン・フォードを食うほどの存在感を示したのが相棒のミシェル役のエマニュエル・セニエで、ハリソン・フォードはむしろ客寄せパンダでこちらの方が実質的な主役なのではないかと感じるほどであった。と思っていたら、なんとこの映画の後ポランスキーとセニエは結婚をしたそうで、あー、そういうことかと思わせる作りだった。

それにしてもパリ警察のやる気のなさと無能っぷりはひどかった。

【映画】『チャイナタウン』 ロマン・ポランスキー Chinatown

ポランスキーが親友のジャック・ニコルソンを念頭に置いて作ったハードボイルドな犯罪映画。1974年の作品であるが、舞台設定は1937年である。雰囲気は少々『グレート・ギャツビー』『ダーティハリー』などに似ているだろうか。最大の見所は1937年アメリカのファッション、自動車、建物である。私立探偵なのに上等の三つ揃えスーツをビシっと決めて帽子を被っているジャック・ニコルソンがとてもスタイリッシュだ。水道局や探偵事務所のオフィス、依頼人の自宅の玄関のドアなど建築もシックで惚れ惚れする。オープンのクラシックカーも眼の保養だ。とても力が入っている。

カッコーの巣の上で』『シャイニング』『恋愛小説家』『バットマン』など、ジャック・ニコルソンといえばちょっと頭のおかしい人から完全に狂った殺人鬼まで、様々なタイプ、様々なレベルの狂人を演じさせれば右に出る者がいない俳優であるが、この作品ではハードボイルドな私立探偵で、今まで観た中では一番狂人成分が少ない役柄であった。

代わりに狂っていたのは映画の内容で、要は社会の無秩序がテーマなのである。

ポランスキーといえば『戦場のピアニスト』であるが、あれも考えてみればナチスがユダヤ人に対して狂気の限りをつくす映画で、「自分の中に秘めている狂気」を「社会に顕現した狂気」に仮託して描いているという面では、共通したテーマを持っているのかもしれない。

この映画で重要な役割を演じるジョン・ヒューストンもやはりちょっとおかしい人で、ポランスキー、ニコルソン、ヒューストンといった、どこか頭のおかしい人たち、狂気を内に秘めた人たちが作った、とてもスタイリッシュでカッコいいハードボイルド犯罪映画という、観て損のない作品であった。

【映画】『オーシャンズ11 』 スティーブン・ソダーバーグ Ocean's Eleven

ソダーバーグというと『トラフィック』『エリン・ブロコビッチ』『チェ』など社会派映画のイメージが強いのだが、これは純然たるエンタテインメント作品である。
スティング』『ミッション・インポッシブル』『ルパン三世』『キャッツ・アイ』を混ぜこぜにしてソダーバーグ的味付けにした感じだ。ソダーバーグは少し固めで鋼の様な持ち味があり、この映画にもそれがよく現れている。ベースをメインにしたスタイリッシュな音楽作りもいかにもソダーバーグ的で、ラストに美しい噴水映像と共にドビュッシーが流れるところは、こういう映画でこれを持ってきたか、と意表をつかれた。
最後までさっぱりとした味わいで、このさっぱり感は、ギャング映画的な要素がありながらも人が死なない、残酷シーンがない、ということが大きい。ソダーバーグは人が死ぬよりも人が生きることに焦点を当てる人なのだろう。
途中ブラピが着ていた服がルパン三世のような衣装で、意識しているのかもしれないと思わせた。