ジェントルかっぱのブログ

読書、映画、美術鑑賞

【映画】『ヒトラー 〜最期の12日間〜』 オリヴァー・ヒルシュビーゲル Der Untergang

ブルーノ・ガンツのキレ芸で高名なヒトラー映画。内容はヒトラー中心だけということはなく、軍人や民間人、ベルリン市街の様子なども描いているのだが、ブルーノ・ガンツインパクトが強くて、よくパロディ化されるあのシーンがこの映画のイメージを代表している。ドイツ人が作るヒトラー映画ということで、ヒトラーに対するネガティブ・プロパガンダ要素を含むこと、前後に映画のモデルでもあるヒトラーの元秘書による「自己批判」が挿入されているのは、致し方ないところであろう。

キレるヒトラー以外にも印象的なシーンはあって、ゲッベルス夫人が我が子達を殺害していくシーンは観ていてかなりつらいものがあった。第二次大戦中の上流階級の多数の子供達ということで『サウンド・オブ・ミュージック』を連想してしまうのである。ゲッベルス夫人を演じた女優が日本の女優だと岩下志麻や、あと弘兼憲史が描く女性キャラにも雰囲気が似ている。実際のゲッベルス夫人も今で言えば紗栄子のように、強い男に乗り換えて行く美人の野心家だったようで、ヒトラーに次ぐ存在感を放ったキャラではないだろうか。

『大脱走』『スターリングラード』『戦場のピアニスト』など、ドイツの敵国側から描かれるドイツ軍やナチス将校は残虐で間抜けなステレオタイプな悪役キャラとして描かれがちだが、ドイツ人が描くナチスやドイツ軍はいろいろな葛藤を持つ人間として描かれる比率が大きくてよい。彼ら、彼女らが酒とたばこに頼らざるを得ないほど精神的に追い詰められている描写が、とてもよかった。酒とたばこは戦争映画では必ず大活躍する。絶望する人間の最後の逃避先は薬物なのである。だが一番禁欲的で自己規律をくずさないのがヒトラーで、彼は最期までたばこも酒もやらず肉も食べないのである。

瓦礫の山と化すベルリン市街は『戦場のピアニスト』で描かれたワルシャワ市街を髣髴とさせる。ヨーロッパ都市の荒廃風景は戦争映画でよく描かれるが、日本の都市の焦土風景をリアルに映像化した映画は記憶にない。例外は関東大震災を描いた宮﨑駿の『風立ちぬ』であろうか。今ならCGを使ってリアルな再現も可能だろうと思うので、誰か東京大空襲をテーマとしてリアルな焼け野原の東京を描いてくれないものだろうか。『シン・ゴジラ』でもそうだったが、一国の首都が破壊されて荒廃する映像というのはそれなりに需要があるものなのだ。

【瀕死語】「やっこさん」

小説などに出てくる言葉で、すぐに意味は通じるし、死語になってはいないものの、日常生活ではまず使わないし世代継承もされにくく、死語になってゆきそうだと推定されるものを、「瀕死語」と呼ぼう。

「やっこさん」

http://dictionary.goo.ne.jp/img/daijisen/ref/113463.jpg

 [名]《「やつこ」の音変化》
1 下僕。しもべ。
「生きて再び恋愛の―となり」〈福田英子・妾の半生涯〉
2 江戸時代、武家の中間 (ちゅうげん) 。頭を撥鬢 (ばちびん) に結い、鎌髭 (かまひげ) を生やし、槍・長柄 (ながえ) ・挟み箱などを持って行列の供先を務めた。
3 江戸初期の男伊達 (おとこだて) ・侠客 (きょうかく) 。町奴と旗本奴とがあった。
4 「奴頭」「奴豆腐」「奴踊り」「奴凧 (やっこだこ) 」などの略。
5 江戸時代の身分刑の一。重罪人の妻子や関所破りをした女などを捕らえて籍を削って牢 (ろう) に入れ、希望者に与えて婢 (ひ) としたもの。
6 男伊達の振る舞いをまねた遊女。
「近世まのあたり見及びたる―には、江戸の勝山、京には三笠、蔵人」〈色道大鏡・四〉

やっこ【奴】の意味 - goo国語辞書

旗本奴 - Wikipedia

かぶき者 - Wikipedia

「やっこさん」という表現は、たしか「ブラック・ジャック」でブラックジャックが使っていたと思う(彼はわりとべらんめえ口調なので)。現代では一部の小説や落語で出てくる位だろう。

 現代の日常語では、まだ「あいつめ」という意味で「やつめ」という。

やっこは武士ではあったが、最下層で見下された、使いっ走り的な身分であった。
「奴」は「奴隷」にも使われ、決して良い意味ではないが、「さん」づけで呼ぶ呼び方があることからも、なんとなく親しみのある、身近なニュアンスがある。
やっこ凧、奴ヒゲ、冷奴、奴ことばなど、奴にまつわる単語は多数あり、江戸時代は馴染み深いポピュラーな身分だったのだろうか。
奴豆腐の奴は、奴が着物につける紋所からきているそうだ。

旗本奴や町奴はいわゆる「かぶき者」で、無頼者の集団だった。

江戸時代の社会の底辺のある階層の人たちが、「やっこ」である。

【映画】『フルメタル・ジャケット』キューブリック FULL METAL JACKET

美しい映像表現を駆使して様々な位相の「狂気」を描かせたら右に出る者がいない、鬼才キューブリックベトナム戦争映画。

反社会的人格の「狂気」(『時計じかけのオレンジ』)、悪霊に憑依された殺人鬼の「狂気」(『シャイニング』)、暴走するコンピュータの「狂気」(『2001年宇宙の旅』)・・・様々な狂気を描いてきたキューブリック

この映画でも狂気が描かれるのだが、他の狂気映画と異なるのが、そのシチュエーションであって、ベトナム戦争自体が状況的に狂気の沙汰であり、そこで人は「狂気」であるのが普通なのである。この映画の中では登場人物達皆が「狂気の海」の中で泳ぐ魚のようなものであり、その海の中では狂気よりもかえって「正気」の方が浮かび上がってしまう。

冒頭の丸刈りシーンは「正気」の世界から「狂気」の世界へ移行するためのイニシエーションであり、狂気の世界へいざなう案内役は言わずと知れたハートマン軍曹である。彼の世界は下半身で満ち溢れた世界、「クソ」と「ファック」で満ち溢れた世界、理性や感情を捨て、野獣の本能を呼び覚ませるための儀礼を行う境界地帯である。

全てのイニシエーションには「死」が伴うのであって、ハートマン軍曹に狂気を呼び起こされた「ほほえみデブ」がハートマン軍曹を射殺して自殺することによってこの儀式は完成する。
しかし両者の死は、儀式は完成しても目的は完遂しなかったことを暗示するのである。
「ほほえみデブ」が陥った狂気と、ハートマン軍曹が引きずり込もうとした狂気は、180度ベクトルが違う狂気であった。前者は個人を、後者は社会を指向する狂気であり、この矛盾する軋轢の中で、まるで物質と反物質との出会いのように、衝突した途端対消滅せざるを得なかったのである。

狂気と狂気が出会って対消滅し、その中で正気が浮かび上がる、それがこの映画の構造である。それを体現するのが主人公のジョーカーであって、あろうことか、なんとこの人はキューブリック作品の主人公でありながら、人間らしい感情と葛藤を捨てず、それに自覚的な、極めて「正気」な人なのである。

狂気とは自我が溶けて葛藤が消滅した、あるいは自我の向こう側に葛藤が抑圧された状態であって、正気とは自我が葛藤の存在に気づいている状態である。

彼の葛藤は、頭に書かれた「BORN TO KILL」と胸につけられた「平和マーク」できっちり表現される。彼はその2つについてユングの名前を出して説明するのだが、ユング精神分裂病患者に対する連想実験を通じて、意識の奥に潜む葛藤(これを彼はコンプレックスと呼んだ)の存在を研究した人である。ハートマン軍曹の目的は訓練生から頭脳とハートを奪い、下半身の指示に従うロボットにすることだったのだが、ジョーカーは頭頂部に殺人を掲げながらも、平和を求めるハートは捨てなかった。精神分析的な防衛機制がしっかりと機能しており、過酷な軍事訓練も自我を溶かすわけにはいかなかったのである。

ベトナム戦争は第2次世界大戦と違って、明確な大義名分がない。後者は日本人がハワイを攻撃したのがトリガーだったが、前者はベトナム人がアメリカに対して攻撃をしかけたわけではないのだ。戦う相手も正規軍ではなく、市民ゲリラである。だから米軍兵士は、自分は国を守るために戦う兵士ではなく、ベトナムの一般人を殺す殺人者にすぎないのではないかという葛藤に、常にさらされている。

後半の市街戦は、視点の低いカメラワークが印象的で、それはスピルバーグの『プライベート・ライアン』と比べざるを得ない、というよりスピルバーグキューブリックからかなり影響を受けていると思われるのだが、『プライベート・ライアン』は相手が正規のドイツ軍であって、そこには戦争の大義名分が成立しており、戦うことに迷うことはなかった。

しかしベトナム戦争の市街戦の相手は正規軍ではなく、ジョーカー達の命を脅かす強力な敵は、少女なのである。その少女の息の根を止める役割をしなければならなかったジョーカーには、この戦争の葛藤がとても鮮烈に表現されている。

【読書】神田古本まつり

土曜日に神田古本まつりに行った。
すずらん通りの「キッチンジロー」で昼食をとり、腹ごしらえをしてから散歩へ。
靖国通りを、駿河台下から神保町の交差点まで進む。岩波ホールで映画のパンフレットをもらい、岩波ブックセンターで新刊本の動向をチェックする。神保町の交差点では、日清戦争の頃に出版された京都・大阪の名所図が一枚500円で売られていた。
踵を返したら、散歩で疲れた脚を休めるため「カフェテラス古瀬戸」へ。ここはいつも比較的空いているのだが、本日はさすがにお祭りの人出で混雑していた。


すずらん通りには、早川書房青土社岩波書店などメジャー出版社の屋台が出ていて、新刊本を場合によっては半値で叩き売っていたのがとても面白かった。
昔と比べて古書店は減り飲食店が増えたが、古書店も多数生き残っていた。
特に嬉しかったのは、「文庫川村」が生き残っていたことである。
品揃えも、昔から全く変わらない。ここは時が止まっている。
文庫川村は私が良く通った古本屋の一つで、岩波文庫と新書が多数売っている。

文庫川村 - BOOK TOWN じんぼう


その他神保町古本屋で面白いのは、「全集の大人買い」が出来ることである。今は入手が難しい人文系書籍の全集が多数ある。「ニーチェ全集」「ヘーゲル全集」「漱石全集」「太宰全集」「芥川全集」「川端全集」「丸山眞男集」などがすぐに手に入るのだ。特に漱石全集は取り扱いが多く価格も安く、一番安いので3,000円であった。「世界の名著」81巻もまだあった。「世界の大思想」は見当たらなかった。ハイデガーの全集も80巻位あったはずだが、見当たらなかった。理系の洋書ではアインシュタイン著作集などもあった。
神保町には、大正・昭和期の教養主義的人文系書籍がまだまだ保存されていた。


ここはもはや展示品を購入できる博物館である。
神保町の古本屋は、もう新しく店舗が出来ることはない。
現状維持も難しいだろうし、ゆるやかに消滅して行くのだろう。
未だに20世紀の雰囲気を保存した、貴重な文化遺産である。

【瀕死語】「いまいましい」

小説などに出てくる言葉で、すぐに意味は通じるし、死語になってはいないものの、日常生活ではまず使わないし世代継承もされにくく、死語になってゆきそうだと推定されるものを、「瀕死語」と呼ぼう。

 「いまいましい」(トルストイアンナ・カレーニナ』より) 

[形][文]いまいま・し[シク]
1 非常に腹立たしく感じる。しゃくにさわる。「―・い泥棒猫め」「―・いことに今日だけ天気が悪いらしい」
2 けがれを避けて慎むべきである。遠慮すべきである。
「ゆゆしき事を近う聞き侍れば、心の乱れ侍る程も―・しうて」〈源・蜻蛉〉
3 不吉である。縁起が悪い。
「かく―・しき身のそひ奉らむも、いと人聞き憂かるべし」〈源・桐壺〉

いまいましい【忌ま忌ましい】の意味 - goo国語辞書

中年の女性が使いそうなイメージの言葉である。
大辞林の用例では源氏物語を引いている。
現代では源氏物語の使い方はしないが、とても息の長い瀕死語である。
これからも1000年位、用法や意味を変えながら瀕死のままでいるのだろうか。
なお、用例に出てくる「泥棒猫」「しゃくにさわる」も瀕死語の気配がする。現代では縁側から侵入して食べ物を盗んでいく猫はあまりいないし、お腹が痛いときに病院に行って「先生、私には持病の癪があって」とは言わない。(心理状態を表す「癇癪」は「子供がかんしゃくを起こす」など、今でも生きている言葉である)

 

【映画】視聴候補作品リスト

cinefil.tokyo

1.『メトロポリス』(1926/独) 監督:フリッツ・ラング
2.『吸血鬼ノスフェラトゥ』(1922/独) 監督:F・W・ムルナウ
3.『ドクトル・マブゼ』(1922/独) 監督:フリッツ・ラング
4.『ナポレオン』(1934/仏) 監督:アベル・ガンス
5.『大いなる幻影』(1937/仏) 監督:ジャン・ルノワール
6.『ゲームの規則』(1939/仏) 監督:ジャン・ルノワール
7.『天井桟敷の人々』(1945/仏) 監督:マルセル・カルネ
8.『無防備都市』(1945/伊) 監督:ロベール・ロッセリーニ
9.『戦火のかなた』(1946/伊) 監督:ロベール・ロッセリーニ
10.『揺れる大地』(1948/伊) 監督:ルキノ・ヴィスコンティ
11.『自転車泥棒』(1948/伊) 監督:ヴィットリオ・デ・シーカ
12.『ウンベルトD』(1951/伊) 監督:ヴィットリオ・デ・シーカ
13.『美女と野獣』(1946/仏) 監督:ジャン・コクトー
14.『東京物語』(1953/日) 監督:小津安二郎
15.『生きる』1952/日) 監督:黒澤明
16.『七人の侍』(1954/日) 監督:黒澤明
17.『雨月物語』(1953/日) 監督:溝口健二
18.『山椒大夫』(1954/日) 監督:溝口健二
19.『天国と地獄』(1963/日) 監督:黒澤明
20.『いつもの見知らぬ男たち』(1958/伊) 監督:マリオ・モニチェリ
21.『若者のすべて』(1960/伊) 監督:ルキノ・ヴィスコンティ
22.『大人は判ってくれない』(1959/仏) 監督:フランソワ・トリュフォー
23.『ピアニストを撃て』(1960/仏) 監督:フランソワ・トリュフォー
24.『勝手にしやがれ』(1959/仏) 監督:ジャン=リュック・ゴダール
25.『はなればなれに』(1964/仏) 監督:ジャン=リュック・ゴダール
26.『追い越し野郎』(1963/伊) 監督:ディノ・リージ
27.『情事』(1960/伊) 監督:ミケランジェロ・アントニオーニ
28.『欲望』(1966/英・伊) 監督:ミケランジェロ・アントニオーニ
29.『革命前夜』(1964/伊) 監督:ベルナルド・ベルトルッチ
30.『肉屋』(1969/仏) 監督:クロード・シャブロル
31.『ウイークエンド』(1967/仏・伊) 監督:ジャン=リュック・ゴダール
32.『絞死刑』(1968/日) 監督:大島渚
33.『四季を売る男』(1971/西独) 監督:ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー
34.『不安と魂』(1974/西独) 監督:ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー
35.『マリア・ブラウンの結婚』(1979/西独) 監督:ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー
36.『さすらい』(1976/西独) 監督:ヴィム・ヴェンダース
37.『アメリカの友人』(1977/西独・仏) 監督:ヴィム・ヴェンダース
38.『カスパー・ハウザーの謎』(1974/西独) 監督:ヴェルナー・ヘルツォーク
39.『アギーレ/神の怒り』(1972/西独) 監督:ヴェルナー・ヘルツォーク

【映画】 『ジョーズ』 スピルバーグ JAWS

この映画を作成した時のスピルバーグは28歳だったそうだ。

主要人物の3人のキャラ立ちが、西遊記のように個性が分かれていて、面白い。ワイルドでアウトロー的な船長は孫悟空、真面目な警察署長は沙悟浄、少しお笑い担当の海洋学者は猪八戒のような、デコボコトリオである。

鑑賞者の想像力に訴え、フェイントと不意打ちを多用する演出は、エンタテインメントのエキスパートであるスピルバーグらしい完成度である。

戦争(『プライベート・ライアン』)や悲惨(『シンドラーのリスト』)やサスペンス(『ジョーズ』)のようなジャンルを描いても、視聴者が安心して映画世界を楽しめるように作る、本質的に毒のないクリエーターである。

子供の時は人喰サメの存在を隠蔽しようとする市長が単なる愚か者としか思えなかったが、長じて社会や世間のことを経験した後改めてこの映画を見ると、島の経済や島民の生活を考える市長が、両方に大打撃を与えるサメの存在を受け入れることができなかったのも、全くわからないものでもない。

2001年宇宙の旅』を観た時もそうだったが、模型やハリボテや絵を使用してフィクション世界を構築する1970年代映画の映像クオリティはとても高く、本作品に登場するサメもオモチャ感やハリボテ感を感じさせない。

スピルバーグ的エンタテインメントが世界中に大ブレイクした記念碑的作品として、これからも永く鑑賞されていくだろう。