ジェントルかっぱのブログ

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【美術鑑賞】 『ゴッホとゴーギャン展』 東京都美術館

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ゴッホとゴーギャン展

上野公園はイチョウの木の葉っぱが燃えるように色づいていて、まるで黄色い花が満開に咲き乱れているようだった。

ゴッホのメインカラーは黄色だったから、もし彼が秋のイチョウの木を描いていたら、さぞかし迫力のあるものになっただろう。

本展はゴッホゴーギャンが共同生活をしていたことを軸にペアリングした展覧会で両者ほぼ同数の作品が展示されている。

ゴッホゴーギャンはメインとする色使いが対照的で、ゴッホは寒い地方出身なのに、絵画では原色に近い鮮やかな色を重ねるが、ゴーギャンは南国に逃避したのに、くすんで渋い色づかいが多い。ゴーギャンはモミジやカエデのような赤さの色がお気に入りのようだったので、もし彼が今の季節の日本に来たら、紅葉の風景を彼独自の色彩で描いたであろう。

どちらかというとゴッホを目当てで行ったため、気に入った作品はゴッホのものばかりになった。

静物画、風景画、どれも良かったのだが、とりわけ気に入ったのは《ジョゼフ・ルーランの肖像》で、花を背負ったヒゲモジャのおじさんで、ヒゲがゴッホの渦々タッチでうねうね、眼はまつげが丁寧に描かれていて可愛らしく、どこかユーモラスで、色彩は鮮やかだった。

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それと複数の子供たちが絵の前で模写ができるサービスを利用して、無心に絵を描いている様がとても心温まるものだった。幼少の頃からこういう本物を模写して見る目を養えるのは、とても羨ましい環境である。彼、彼女らからアーティストが生まれるのだろうか。良い企画である。

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【映画】『フランティック』 ロマン・ポランスキー Frantic

ポランスキーによるハードボイルドサスペンス映画。

主演のハリソン・フォードは外科医という設定なのだが、組織と対決するための戦闘スキルは戦略、戦術、判断力いずれも警察をしのぐ高さで、謎を追いかけて冒険をするパリに現れたインディ・ジョーンズにしか見えない。

ハリソン・フォードを食うほどの存在感を示したのが相棒のミシェル役のエマニュエル・セニエで、ハリソン・フォードはむしろ客寄せパンダでこちらの方が実質的な主役なのではないかと感じるほどであった。と思っていたら、なんとこの映画の後ポランスキーとセニエは結婚をしたそうで、あー、そういうことかと思わせる作りだった。

それにしてもパリ警察のやる気のなさと無能っぷりはひどかった。

【映画】『チャイナタウン』 ロマン・ポランスキー Chinatown

ポランスキーが親友のジャック・ニコルソンを念頭に置いて作ったハードボイルドな犯罪映画。1974年の作品であるが、舞台設定は1937年である。雰囲気は少々『グレート・ギャツビー』『ダーティハリー』などに似ているだろうか。最大の見所は1937年アメリカのファッション、自動車、建物である。私立探偵なのに上等の三つ揃えスーツをビシっと決めて帽子を被っているジャック・ニコルソンがとてもスタイリッシュだ。水道局や探偵事務所のオフィス、依頼人の自宅の玄関のドアなど建築もシックで惚れ惚れする。オープンのクラシックカーも眼の保養だ。とても力が入っている。

カッコーの巣の上で』『シャイニング』『恋愛小説家』『バットマン』など、ジャック・ニコルソンといえばちょっと頭のおかしい人から完全に狂った殺人鬼まで、様々なタイプ、様々なレベルの狂人を演じさせれば右に出る者がいない俳優であるが、この作品ではハードボイルドな私立探偵で、今まで観た中では一番狂人成分が少ない役柄であった。

代わりに狂っていたのは映画の内容で、要は社会の無秩序がテーマなのである。

ポランスキーといえば『戦場のピアニスト』であるが、あれも考えてみればナチスがユダヤ人に対して狂気の限りをつくす映画で、「自分の中に秘めている狂気」を「社会に顕現した狂気」に仮託して描いているという面では、共通したテーマを持っているのかもしれない。

この映画で重要な役割を演じるジョン・ヒューストンもやはりちょっとおかしい人で、ポランスキー、ニコルソン、ヒューストンといった、どこか頭のおかしい人たち、狂気を内に秘めた人たちが作った、とてもスタイリッシュでカッコいいハードボイルド犯罪映画という、観て損のない作品であった。

【映画】『オーシャンズ11 』 スティーブン・ソダーバーグ Ocean's Eleven

ソダーバーグというと『トラフィック』『エリン・ブロコビッチ』『チェ』など社会派映画のイメージが強いのだが、これは純然たるエンタテインメント作品である。
スティング』『ミッション・インポッシブル』『ルパン三世』『キャッツ・アイ』を混ぜこぜにしてソダーバーグ的味付けにした感じだ。ソダーバーグは少し固めで鋼の様な持ち味があり、この映画にもそれがよく現れている。ベースをメインにしたスタイリッシュな音楽作りもいかにもソダーバーグ的で、ラストに美しい噴水映像と共にドビュッシーが流れるところは、こういう映画でこれを持ってきたか、と意表をつかれた。
最後までさっぱりとした味わいで、このさっぱり感は、ギャング映画的な要素がありながらも人が死なない、残酷シーンがない、ということが大きい。ソダーバーグは人が死ぬよりも人が生きることに焦点を当てる人なのだろう。
途中ブラピが着ていた服がルパン三世のような衣装で、意識しているのかもしれないと思わせた。

【映画】『ヒトラー 〜最期の12日間〜』 オリヴァー・ヒルシュビーゲル Der Untergang

ブルーノ・ガンツのキレ芸で高名なヒトラー映画。内容はヒトラー中心だけということはなく、軍人や民間人、ベルリン市街の様子なども描いているのだが、ブルーノ・ガンツインパクトが強くて、よくパロディ化されるあのシーンがこの映画のイメージを代表している。ドイツ人が作るヒトラー映画ということで、ヒトラーに対するネガティブ・プロパガンダ要素を含むこと、前後に映画のモデルでもあるヒトラーの元秘書による「自己批判」が挿入されているのは、致し方ないところであろう。

キレるヒトラー以外にも印象的なシーンはあって、ゲッベルス夫人が我が子達を殺害していくシーンは観ていてかなりつらいものがあった。第二次大戦中の上流階級の多数の子供達ということで『サウンド・オブ・ミュージック』を連想してしまうのである。ゲッベルス夫人を演じた女優が日本の女優だと岩下志麻や、あと弘兼憲史が描く女性キャラにも雰囲気が似ている。実際のゲッベルス夫人も今で言えば紗栄子のように、強い男に乗り換えて行く美人の野心家だったようで、ヒトラーに次ぐ存在感を放ったキャラではないだろうか。

『大脱走』『スターリングラード』『戦場のピアニスト』など、ドイツの敵国側から描かれるドイツ軍やナチス将校は残虐で間抜けなステレオタイプな悪役キャラとして描かれがちだが、ドイツ人が描くナチスやドイツ軍はいろいろな葛藤を持つ人間として描かれる比率が大きくてよい。彼ら、彼女らが酒とたばこに頼らざるを得ないほど精神的に追い詰められている描写が、とてもよかった。酒とたばこは戦争映画では必ず大活躍する。絶望する人間の最後の逃避先は薬物なのである。だが一番禁欲的で自己規律をくずさないのがヒトラーで、彼は最期までたばこも酒もやらず肉も食べないのである。

瓦礫の山と化すベルリン市街は『戦場のピアニスト』で描かれたワルシャワ市街を髣髴とさせる。ヨーロッパ都市の荒廃風景は戦争映画でよく描かれるが、日本の都市の焦土風景をリアルに映像化した映画は記憶にない。例外は関東大震災を描いた宮﨑駿の『風立ちぬ』であろうか。今ならCGを使ってリアルな再現も可能だろうと思うので、誰か東京大空襲をテーマとしてリアルな焼け野原の東京を描いてくれないものだろうか。『シン・ゴジラ』でもそうだったが、一国の首都が破壊されて荒廃する映像というのはそれなりに需要があるものなのだ。

【瀕死語】「やっこさん」

小説などに出てくる言葉で、すぐに意味は通じるし、死語になってはいないものの、日常生活ではまず使わないし世代継承もされにくく、死語になってゆきそうだと推定されるものを、「瀕死語」と呼ぼう。

「やっこさん」

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 [名]《「やつこ」の音変化》
1 下僕。しもべ。
「生きて再び恋愛の―となり」〈福田英子・妾の半生涯〉
2 江戸時代、武家の中間 (ちゅうげん) 。頭を撥鬢 (ばちびん) に結い、鎌髭 (かまひげ) を生やし、槍・長柄 (ながえ) ・挟み箱などを持って行列の供先を務めた。
3 江戸初期の男伊達 (おとこだて) ・侠客 (きょうかく) 。町奴と旗本奴とがあった。
4 「奴頭」「奴豆腐」「奴踊り」「奴凧 (やっこだこ) 」などの略。
5 江戸時代の身分刑の一。重罪人の妻子や関所破りをした女などを捕らえて籍を削って牢 (ろう) に入れ、希望者に与えて婢 (ひ) としたもの。
6 男伊達の振る舞いをまねた遊女。
「近世まのあたり見及びたる―には、江戸の勝山、京には三笠、蔵人」〈色道大鏡・四〉

やっこ【奴】の意味 - goo国語辞書

旗本奴 - Wikipedia

かぶき者 - Wikipedia

「やっこさん」という表現は、たしか「ブラック・ジャック」でブラックジャックが使っていたと思う(彼はわりとべらんめえ口調なので)。現代では一部の小説や落語で出てくる位だろう。

 現代の日常語では、まだ「あいつめ」という意味で「やつめ」という。

やっこは武士ではあったが、最下層で見下された、使いっ走り的な身分であった。
「奴」は「奴隷」にも使われ、決して良い意味ではないが、「さん」づけで呼ぶ呼び方があることからも、なんとなく親しみのある、身近なニュアンスがある。
やっこ凧、奴ヒゲ、冷奴、奴ことばなど、奴にまつわる単語は多数あり、江戸時代は馴染み深いポピュラーな身分だったのだろうか。
奴豆腐の奴は、奴が着物につける紋所からきているそうだ。

旗本奴や町奴はいわゆる「かぶき者」で、無頼者の集団だった。

江戸時代の社会の底辺のある階層の人たちが、「やっこ」である。

【映画】『フルメタル・ジャケット』キューブリック FULL METAL JACKET

美しい映像表現を駆使して様々な位相の「狂気」を描かせたら右に出る者がいない、鬼才キューブリックベトナム戦争映画。

反社会的人格の「狂気」(『時計じかけのオレンジ』)、悪霊に憑依された殺人鬼の「狂気」(『シャイニング』)、暴走するコンピュータの「狂気」(『2001年宇宙の旅』)・・・様々な狂気を描いてきたキューブリック

この映画でも狂気が描かれるのだが、他の狂気映画と異なるのが、そのシチュエーションであって、ベトナム戦争自体が状況的に狂気の沙汰であり、そこで人は「狂気」であるのが普通なのである。この映画の中では登場人物達皆が「狂気の海」の中で泳ぐ魚のようなものであり、その海の中では狂気よりもかえって「正気」の方が浮かび上がってしまう。

冒頭の丸刈りシーンは「正気」の世界から「狂気」の世界へ移行するためのイニシエーションであり、狂気の世界へいざなう案内役は言わずと知れたハートマン軍曹である。彼の世界は下半身で満ち溢れた世界、「クソ」と「ファック」で満ち溢れた世界、理性や感情を捨て、野獣の本能を呼び覚ませるための儀礼を行う境界地帯である。

全てのイニシエーションには「死」が伴うのであって、ハートマン軍曹に狂気を呼び起こされた「ほほえみデブ」がハートマン軍曹を射殺して自殺することによってこの儀式は完成する。
しかし両者の死は、儀式は完成しても目的は完遂しなかったことを暗示するのである。
「ほほえみデブ」が陥った狂気と、ハートマン軍曹が引きずり込もうとした狂気は、180度ベクトルが違う狂気であった。前者は個人を、後者は社会を指向する狂気であり、この矛盾する軋轢の中で、まるで物質と反物質との出会いのように、衝突した途端対消滅せざるを得なかったのである。

狂気と狂気が出会って対消滅し、その中で正気が浮かび上がる、それがこの映画の構造である。それを体現するのが主人公のジョーカーであって、あろうことか、なんとこの人はキューブリック作品の主人公でありながら、人間らしい感情と葛藤を捨てず、それに自覚的な、極めて「正気」な人なのである。

狂気とは自我が溶けて葛藤が消滅した、あるいは自我の向こう側に葛藤が抑圧された状態であって、正気とは自我が葛藤の存在に気づいている状態である。

彼の葛藤は、頭に書かれた「BORN TO KILL」と胸につけられた「平和マーク」できっちり表現される。彼はその2つについてユングの名前を出して説明するのだが、ユング精神分裂病患者に対する連想実験を通じて、意識の奥に潜む葛藤(これを彼はコンプレックスと呼んだ)の存在を研究した人である。ハートマン軍曹の目的は訓練生から頭脳とハートを奪い、下半身の指示に従うロボットにすることだったのだが、ジョーカーは頭頂部に殺人を掲げながらも、平和を求めるハートは捨てなかった。精神分析的な防衛機制がしっかりと機能しており、過酷な軍事訓練も自我を溶かすわけにはいかなかったのである。

ベトナム戦争は第2次世界大戦と違って、明確な大義名分がない。後者は日本人がハワイを攻撃したのがトリガーだったが、前者はベトナム人がアメリカに対して攻撃をしかけたわけではないのだ。戦う相手も正規軍ではなく、市民ゲリラである。だから米軍兵士は、自分は国を守るために戦う兵士ではなく、ベトナムの一般人を殺す殺人者にすぎないのではないかという葛藤に、常にさらされている。

後半の市街戦は、視点の低いカメラワークが印象的で、それはスピルバーグの『プライベート・ライアン』と比べざるを得ない、というよりスピルバーグキューブリックからかなり影響を受けていると思われるのだが、『プライベート・ライアン』は相手が正規のドイツ軍であって、そこには戦争の大義名分が成立しており、戦うことに迷うことはなかった。

しかしベトナム戦争の市街戦の相手は正規軍ではなく、ジョーカー達の命を脅かす強力な敵は、少女なのである。その少女の息の根を止める役割をしなければならなかったジョーカーには、この戦争の葛藤がとても鮮烈に表現されている。