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【映画】『沈黙』 遠藤周作/マーティン・スコセッシ 2017年 パラマウント/KADOKAWA

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この映画の最大の見所は、俳優の演技、特に井上筑後守を演じたイッセー尾形の素晴らしい演技である。イッセー尾形というとコミカルな一人芝居が有名で、映画ではあまり見ない俳優である。

一見何も考えていないように見えて、実のところ鋭い分析力と戦略、戦術を兼ね備えた、いわば刑事コロンボのようなキャラを持つ井上筑後守ロドリゴ神父との思想的対決のシーンが、とても見応えのあるものであった。

また近年、『野火』『シン・ゴジラ』など話題作でことごとくお目にかかっているのが塚本晋也監督で、この人はおそらくマゾの気があるのだろうが、いじめられたり虐げられたリする役が、とても似合うのである。今回のモキチは、田村一等兵をはるかに凌ぐ悲惨さであった。

フェレイラ神父役のリーアム・ニーソンは、『シンドラーのリスト』でシンドラーを演じた人で、映画を見終わって調べるまでは全くそこは気づかなかった。フェレイラ神父の生き様は、虐殺される人々を守るために自らの身を守りながらも力を尽くす点で、シンドラーと重なるところがなくもない。

「初老のおじさん」が光り輝くことができる稀有な職業の一つが、映画俳優であろう。

 私がキリシタンの歴史について初めて触れたのはレオン・パジェスの『日本切支丹宗門史』で、岩波文庫で3巻に及ぶ大作であるが、延々と続く拷問と虐殺と処刑の記述を読んで、かなりの精神的ダメージを受けた。その時に強い印象をもったのは例の逆さ吊りの拷問(映画の中では拷問方法に「改良」が加えられて、かなり洗練したバージョンのものになっている)で、切支丹に対する拷問といえば逆さ吊りがイメージとして定着したものだった。

キリスト教徒迫害の物語でなんといっても思い出すのは、岩波文庫にも入っているヘンリク・シェンキェヴィチの『クオ・ヴァディス』である。あの小説では迫害を逃れてローマから逃避中のペテロの前にキリストが現れる。ペテロは「主よ、どちらに行かれる(quo vadis)のですか?」と問う。キリストは応える、「おまえが私の民を見捨てるなら、私はローマに行って今一度十字架にかかるであろう」と。それを聞いたペテロはローマに戻り、「逆さ十字架」にかけられて死亡するのである。そのペテロの墓の上に建てられたことになっているのがサン・ピエトロ大聖堂であり、ペテロは初代ローマ法王の位置づけなのである。かくの如く、カトリックと逆さ吊りは因縁が深い。

日本におけるキリシタンの迫害はヨーロッパにも絵付きで報道され、センセーショナルを巻き起こした。逆さ吊りで処刑されるカトリック教徒を見たヨーロッパの宣教師たちは、そこにペテロの姿を重ね合わせたかもしれない。それが、わざわざ危険を犯してまでも日本に来ようとする動機を燃えあがらせたのかもしれない。

この映画でもクライマックスに、ロドリゴ神父に対してキリストが語りかける。そしてその言葉はとても感動的で、「慈悲」にあふれている。その言葉と、『クオ・ヴァディス』におけるキリストの言葉の違いこそが、ヨーロッパ人と日本人のキリスト教に対する捉え方の違いを、浮き彫りにしているのである。シェンキェヴィチはポーランドの作家である。

岩波文庫で読める「虐殺記録もの」では、ラス・カサスの『インディアスの破壊についての簡潔な報告』が、カトリック宣教師を含むスペイン人がアメリカでおこなった拷問、虐殺、部族皆殺し、奴隷化の蛮行を現代に伝えている。あまりの残虐さに読者がかなり苦しい思いをする史料になっている。

 『沈黙』は史実をかなり取り入れて創作された小説で、井上筑後守もフェレイラ神父も岡本三右衛門も実在の人物である。『沈黙』は、コロンブスのアメリカ大陸到達とルターの宗教改革とから始まる歴史的な流れを抑えながら理解する必要がある。

対抗宗教改革とスペイン・ポルトガルの侵略政策が結びついたカトリックの伝道活動は、グローバリズムの一種である。現代のグローバリズムを支えるイデオロギー新自由主義だが、当時のグローバリズムを支えるイデオロギーは、普遍主義だった(映画内でもロドリゴは布教活動の理由として「真理」と「普遍」を挙げている)。新自由主義も一種の普遍主義であるので、500年前の歴史が形を変えて現代も繰り返されていると言える。

グローバリズムに対抗するために、当時の日本政府が取った対策は、自由貿易の否定と、それを支えるイデオロギーの根絶であった。そのイデオロギーとはイエズス会を代表するカトリック的普遍主義である。「真理」と「普遍」を強固に主張するロドリゴ神父に対する井上筑後守の反論も、「日本に普遍主義はなじまない」という論旨で一貫している。近年、日本史の教科書から「鎖国」の文字が外されつつあるが、それもイデオロギー歴史認識を侵食する典型例である。いつの日か新自由主義が否定される時代がくるのは、太陽が明日も昇るのと同じくらい確実だが、その時には「鎖国」の文字が教科書に復活するだろうか。

 キリスト教はもともとユダヤ教の新派であり、普遍主義は含まれていなかった。普遍主義はプラトンの哲学を源流とする。キリスト教に普遍主義を接続させたのは、アンセルムスやトマス・アクィナスなどの中世の神学者たちである。現代世界で「自由主義」の後釜の「新自由主義」が大流行しているのと同様に、宗教改革後のルネッサンス期では「プラトン主義」の後釜のプロティノスの「新プラトン主義」が大流行で、当時のヨーロッパではグローバリズムへの正当化を支えるイデオロギーが広く深く受け入れられていた。それを支援したのが、あのメディチ家である。

余談ではあるが、中世でアンセルムスの実在論とオッカムの唯名論を「統合」したのがトマス・アクィナスで、この図式は近代において、デカルトの合理論とヒュームの経験論を「統合」したカントの流れとパラレルである。19世紀から21世紀にかけてはこの図式は経済政策の分野で継承されていて、共産主義vs資本主義、ケインズ主義vs新自由主義財政支出vs金融緩和、トランプvsリベラリズムという形で変奏されている。

中世は「キリスト教の神」が神に(だからトマス・アクィナスの主著は神学大全なのである)、近代は「理性」が神に(だからカントの主著は純粋「理性」批判なのである)、現代は「金」が神に(だからケインズの主著は雇用と利子とお金の一般理論なのである)なっただけである。

いずれも、その時代の神をめぐる戦いなのである。「神」はそもそも「イデア」界に存在するものなので(これこそがプラトンが人類に与えた贈り物である)、「神」をめぐる戦いは全て「イデオロギー」の戦いである。

「金」という現代の神をめぐる戦いを「統合」する思想家は現れるだろうか。トランプは政治家なので統合はしない。彼の役割はこの対立図式を目に見えやすく浮き立たさせることである。

 閑話休題。プリミティブなキリスト教は、神のみが一番えらい存在なので、世俗の権力には不服従になる(現代において資産家が国民国家に対して不服従なのとパラレルである。資産家にとって一番えらいのは国民国家ではなく自分の金である)。キリスト教徒は幕府の政策に従わない。宣教師達はそれを煽っている。キリスト教イデオロギー的支柱になった最大の反乱が、キリシタン天草四郎が主導した島原の乱である。ここに、幕府による迫害が苛烈化した理由の一旦がある。

 キリシタン大名の保護を受けた天正遣欧少年使節でローマに渡った中浦ジュリアンは、それから51年後にフェレイラ神父とともに穴吊り拷問にかけられ死亡、フェレイラは映画で描かれているように棄教し、沢野忠庵になった。キリシタンの運命は50年で180度変わったのである。

1492年 コロンブス、アメリカ大陸到達、現地人の虐殺開始
1514年 ラス・カサス、良心の呵責に耐えかねて、自己所有の奴隷を解放
1517年 ルター、宗教改革開始
1521年 マゼラン、世界一周
1529年 ポルトガルとスペイン、サラゴサ条約を締結
1534年 ザビエルとロヨラ宗教改革に対抗してイエズス会を創設
1549年 ザビエル、日本に到着
1582年 中浦ジュリアン天正遣欧少年使節、ローマへ派遣
1587年 秀吉、バテレン追放令
1596年 秀吉、キリスト教徒26名を処刑する
1612年 家康、キリスト禁教令
1622年 元和の大殉教、55人が火刑または斬首となる
1632年 井上筑後守江戸幕府大目付になる
1633年 フェレイラ神父、長崎で捕らえられる、中浦ジュリアンは穴吊り拷問で死亡する
1637年 島原の乱勃発
1639年 ポルトガル人追放、鎖国の開始
1643年 キアラ神父(ロドリゴのモデル)、長崎で捕らえられる