ジェントルかっぱのブログ

読書、映画、美術鑑賞

【映画】『市民ケーン』 オーソン・ウェルズ 1941年

この映画を観るにつけても思い出すのが『グレート・ギャツビー』である。

ケーンもギャツビーもそれほど悪人ではない。彼らは周囲の人に横暴な振る舞いをするどころか、とても気前よくする。ギャツビーは連日パーティーをするし、ケーンはライバル会社から引き抜いた記者達のために豪華なパーティーをしたり、解雇した従業員に2万5千ドルを支払おうとしたり、2人目の妻のために歌劇場を建設したりする。ケーンが厳しく当たるのはビジネス上のライバルの会社や政治上の敵であって、身内にとってはそれほど脅威になる人物ではないのだ。

ギャッツビーもケーンも「成り上がり者」である。ギャツビーは(おそらく非合法な)ビジネスで財を成し、ケーンはたまたま大金を入手した両親から財産を受け継ぐ。両者に共通しているのは、財産の適正な使い方を知らなかったことであり、それがゆえに周囲の人々から軽んじられ、冷たくあしらわれる人生を送ったのである。

大きな資産、それを代表するお金というものは、ある一定の分量を超えると、個人の所有物ではなくなる。それはその人の所属するコミュニティーの共有財産であり、その人はその財産を預かっているだけという暗黙の扱いを受ける。だから自分の為だけにお金を使用する金持ちは好かれない。成り上がり者は、コミュニティーにお金を還元する方法を知らないため、お金の使い方が素っ頓狂なものになる。

ギャツビーはデイジーをおびき寄せる撒き餌のために自分の財産を使用しただけだった。ケーンにとっては新聞社経営は赤字でも構わない趣味のようなものであった。ギャツビーもケーンも有り余るお金は豪華な屋敷や趣味のコレクションに行かざるを得なかった。

「人も羨むような莫大な資産を持っている人物が(お金では買えない)他人からの好意を得ることができず、結局失意のうちに孤独の中に死なざるを得なかった」というストーリーは、鑑賞者に安心感を与える。誰もが「全てを持っている人」より、「大きなプラスを別の大きなマイナスでバランスさせている人」の方が好きである。だから『リア王』のような悲劇が成立するのだ。莫大な権力と資産の究極形態である王が悲惨な死を遂げることこそ、バランスを感じさせるものはない。バランスとは「正義」そのものなのである。だからこそ弁護士バッジには天秤が描かれるのだ。

ギャッツビーもケーンも根は悪い人ではない。むしろ、対人関係ではちょっと抜けているところがある善人である。だが大きな資産が暗黙に求める責任は、それを所有する人間が単なる善人であることを許さないのである。資産を形成することにも、資産を使用することにも、正当化するにはそれなりにふさわしい物語が求められるのだ。