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ジェントルかっぱのブログ

読書、映画、美術鑑賞

【映画】『惑星ソラリス』 アンドレイ・タルコフスキー Солярис (1972)

ドイツの神聖ローマ帝国は1000年続いたが、ロシアのソビエト連邦は70年しか続かなかった。25年以上前に失われた帝国であるソ連が次第に伝説化してゆくなかで、ソ連製のSF映画というのは、人をワクワクさせるものがある。

最初に驚いたのは、1972年のソ連のSF映画に、日本の首都高の映像が使用されていたことだ。総武線、赤坂トンネル、飯倉出入口。当時首都高が未来的なイメージがあったためだそうだ。今と変わらぬ首都高に70年代の古い自動車が走っている姿は現代から観るとレトロな感じしかしないが、あの立体交差が複雑に絡み合う構造は、言われてみると昔の絵本とかによくあった未来都市イメージを含有している。首都高は高度経済成長期の日本がオリンピックの肝いりで作った、最先端の未来都市道路インフラだったのだ。

SFというのは哲学と神話を基本構成とするジャンルであって、この映画は黄泉の国訪問譚とスワンプマン的な同一性思考実験を組み合わせたものである。古事記イザナギイザナミに会うために黄泉の国に行く話があるが、それを思い起こさせるものがある。

神話のシンボリックな解釈、物語構造を人間の心の仕組みに還元する解釈はフロイトが始めてユングが好んで用いたアプローチだが、知識階級において精神分析が一世を風靡した20世紀の芸術作品は、精神分析的構造を物語の構成基盤に織り込むということをよくやる。この作品はSF作品に名を借りた精神分析的物語でもある。主人公が心理学者という設定なのもそれを暗示している。

SFというジャンルは19世紀のヴェルヌの冒険譚のころは、主人公が未知の外的世界に冒険や探検をしに行くものだったが、第二次世界大戦以降の後半は精神分析的手法を借りて内的世界を外的世界に投影するものに変化した。この映画もその変化にのっとったものだろう。

主人公が探求する「ソラリス」は黄泉の国=過去の世界=自分の心の中であり、フロイトによれば無意識の中には時間がなく、過去の出来事が当時の感情と一緒に保存されているのだから、そこではその人にとって最も感情的な衝撃の強い出来事や人物、つまりコンプレックスが保存されていることになる。

ソラリスの海はエス、そこから物質化されてくる記憶の形象はコンプレックス、海の中に現れる小島は自我。そのどれもこれもが人に大きな影響を与える母親(グレート・マザー)、父親(老賢者)、配偶者(アニマ)である。

人間は過去=コンプレックスから自由になることはできない。ましてやそれが後悔、怨恨、自責などのネガティブな感情と結びついている場合、それは決して死なないゾンビのように、何度も何度もたちあらわれてくる。主人公はそこから離れることができず、最後はソラリスの島の中に退行して実家に閉じこもってしまうのである。これは精神分析的な症状発現の機序そのものなのである。

ラストシーンの徐々にカメラが引いていく演出は、スピルバーグの『マイノリティ・リポート』のラストによく似ていて、スピルバーグはこの映画から引用したのかもしれないと思われる。この映画は過去に束縛されるSFだったが、あの映画は未来を変更するSFだった。