ジェントルかっぱのブログ

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【映画】『フルメタル・ジャケット』キューブリック FULL METAL JACKET

美しい映像表現を駆使して様々な位相の「狂気」を描かせたら右に出る者がいない、鬼才キューブリックベトナム戦争映画。

反社会的人格の「狂気」(『時計じかけのオレンジ』)、悪霊に憑依された殺人鬼の「狂気」(『シャイニング』)、暴走するコンピュータの「狂気」(『2001年宇宙の旅』)・・・様々な狂気を描いてきたキューブリック

この映画でも狂気が描かれるのだが、他の狂気映画と異なるのが、そのシチュエーションであって、ベトナム戦争自体が状況的に狂気の沙汰であり、そこで人は「狂気」であるのが普通なのである。この映画の中では登場人物達皆が「狂気の海」の中で泳ぐ魚のようなものであり、その海の中では狂気よりもかえって「正気」の方が浮かび上がってしまう。

冒頭の丸刈りシーンは「正気」の世界から「狂気」の世界へ移行するためのイニシエーションであり、狂気の世界へいざなう案内役は言わずと知れたハートマン軍曹である。彼の世界は下半身で満ち溢れた世界、「クソ」と「ファック」で満ち溢れた世界、理性や感情を捨て、野獣の本能を呼び覚ませるための儀礼を行う境界地帯である。

全てのイニシエーションには「死」が伴うのであって、ハートマン軍曹に狂気を呼び起こされた「ほほえみデブ」がハートマン軍曹を射殺して自殺することによってこの儀式は完成する。
しかし両者の死は、儀式は完成しても目的は完遂しなかったことを暗示するのである。
「ほほえみデブ」が陥った狂気と、ハートマン軍曹が引きずり込もうとした狂気は、180度ベクトルが違う狂気であった。前者は個人を、後者は社会を指向する狂気であり、この矛盾する軋轢の中で、まるで物質と反物質との出会いのように、衝突した途端対消滅せざるを得なかったのである。

狂気と狂気が出会って対消滅し、その中で正気が浮かび上がる、それがこの映画の構造である。それを体現するのが主人公のジョーカーであって、あろうことか、なんとこの人はキューブリック作品の主人公でありながら、人間らしい感情と葛藤を捨てず、それに自覚的な、極めて「正気」な人なのである。

狂気とは自我が溶けて葛藤が消滅した、あるいは自我の向こう側に葛藤が抑圧された状態であって、正気とは自我が葛藤の存在に気づいている状態である。

彼の葛藤は、頭に書かれた「BORN TO KILL」と胸につけられた「平和マーク」できっちり表現される。彼はその2つについてユングの名前を出して説明するのだが、ユング精神分裂病患者に対する連想実験を通じて、意識の奥に潜む葛藤(これを彼はコンプレックスと呼んだ)の存在を研究した人である。ハートマン軍曹の目的は訓練生から頭脳とハートを奪い、下半身の指示に従うロボットにすることだったのだが、ジョーカーは頭頂部に殺人を掲げながらも、平和を求めるハートは捨てなかった。精神分析的な防衛機制がしっかりと機能しており、過酷な軍事訓練も自我を溶かすわけにはいかなかったのである。

ベトナム戦争は第2次世界大戦と違って、明確な大義名分がない。後者は日本人がハワイを攻撃したのがトリガーだったが、前者はベトナム人がアメリカに対して攻撃をしかけたわけではないのだ。戦う相手も正規軍ではなく、市民ゲリラである。だから米軍兵士は、自分は国を守るために戦う兵士ではなく、ベトナムの一般人を殺す殺人者にすぎないのではないかという葛藤に、常にさらされている。

後半の市街戦は、視点の低いカメラワークが印象的で、それはスピルバーグの『プライベート・ライアン』と比べざるを得ない、というよりスピルバーグキューブリックからかなり影響を受けていると思われるのだが、『プライベート・ライアン』は相手が正規のドイツ軍であって、そこには戦争の大義名分が成立しており、戦うことに迷うことはなかった。

しかしベトナム戦争の市街戦の相手は正規軍ではなく、ジョーカー達の命を脅かす強力な敵は、少女なのである。その少女の息の根を止める役割をしなければならなかったジョーカーには、この戦争の葛藤がとても鮮烈に表現されている。