ジェントルかっぱのブログ

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【映画】『続・男はつらいよ』 山田洋次 1969年

寅さんシリーズ第2作。マドンナは佐藤オリエ。佐藤オリエは賀来千香子に少し似た細身で知的な感じのする美人で、彫刻家の娘である。劇中では東野英治郎扮する退職者英語教師の娘、寅さんのかつての同級生の役であった。

寅さんの悲劇の一因は自分より社会階層が上の女性に熱を上げてしまうことである。下位階層の女性が上位階層の男性とくっつくいわゆる上昇婚はあっても、その逆は極めてまれだ。例外は男性が極めてイケメンであったり特殊な才能を持っていたりという、階層ギャップを埋めるような要素がある場合に限られる。

寅さんは階層ギャップを埋めるだけの明確なアドバンテージがなく、むしろブサイクという、恋愛にはかなり不利なハンデを背負っている存在なので、その恋は常に敗れるのである。

男性には恋愛向きの男性と恋愛不向きの男性がおり、もちろん寅さんは後者である。寅さんが上層階層の女性と恋愛しようとするのは、魚が空を飛ぼうとするようなものである。実際今回のマドンナの夏子も寅さんは男としては眼中になく自分より社会階層が同一以上の医者を相手に選ぶのである。

恋愛と結婚が一直線につながっていない時代は同一社会階層内でお見合いして結婚するのが主流であった。

お見合いは階層内の成員をマッチングさせて、つがいを組ませて再生産させることにより、社会階層を自己強化していく、自律的階層保全システムである。

社会はレイヤーに分かれているが、そのレイヤーを構成する単位は親族あるいは家族であり、同一レイヤーの家族同士が婚姻関係を結ぶことによってレイヤー内を補強することができる。政略結婚という言葉があるが、結婚というのは本質的に政略結婚である。だから政略結婚が意味をなさない社会では、結婚そのものがされなくなっていくのである。その意味では恋愛結婚は矛盾した概念であって、恋愛結婚の究極型は、恋愛も結婚もない社会である。恋愛と結婚の関係は物質と反物質に似ている。両者は融合することによって、対消滅する運命にある。現在はその過渡期である。

寅さんの時代は見合いから恋愛へ結婚形態が移行していく過渡期の初動であったため、その間に落ち込んだ寅さんは、永遠に結婚できない無限ループを繰り返さざるを得なかった。

1969年時点で38歳の設定の寅さんは、昭和6年生まれである。この時代には親に捨てられた子、妾の子、芸者の子というのはとてもありふれたものであった。そのように生まれたときから深い傷を負って、幼少から虐げられきた人間は、逃げたくても逃げられない自分、劣等な自分、愛されなかった自分にがっしりと捕まえられている。多くの人は死ぬまでそこから逃れられない。

寅さんの放浪癖というのは、劣等感から逃走する試みである。だが自分はどこに行っても自分についてくるものであって、そこから逃げることはできない。だから寅さんは柴又と各地の間の永遠の往復運動を繰り返すのである。

自罰的傾向があまりに強すぎるため、他者から愛される能力がそれによって相殺されてしまう。それが表現されているのが、寅さんが時折見せる「照れた表情」と「強がった乱暴な振る舞い」と「浮かれた大はしゃぎ」である。これらは自己肯定感が薄い人たちが見せる特徴的な行動様式である。『男はつらいよ』はこの3つのモードを、スイッチを切り替えながら行ったり来たりする寅さんを鑑賞し続ける映画なのである。

寅さんを、周囲の人々はいつもハラハラしながら見守っている。さくらもおいちゃんもおばちゃんもひろしもタコ社長も、寅さんに対しては礼儀正しく、暖かく、優しい。人から見下されるのがなによりもこたえる寅さんに対して彼らは決して上から目線にならず(御前様は例外である)、全てを無条件に受け入れる母親のような態度で接する。彼らがいなければ寅さんは生きては行けないであろう。

今回は寅さんの実母が登場するのだが、実母は母性で包み込むような人ではなく、頭の回転の良さと抜け目のなさを武器にして、世知辛い世の中をサバイバルしていく能力に長けた人である。寅さんが母から受け継いだのはこういった性質であった。