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ジェントルかっぱのブログ

読書、映画、美術鑑賞

【映画】『刑事ジョン・ブック目撃者』 ハリソン・フォード/ピーター・ウィアー 1985年 パラマウント

映画

ハリソン・フォードの刑事モノということで当初は『ダーティハリー』からダーティーさを取り払ったようなサスペンス・アクションだと思っていたところ、思わぬ内容にびっくりした。

これは昔TBSでやっていた『世界ウルルン滞在記』、この番組は山本太郎玉木宏など当時売り出し中の若手俳優が世界の辺境地(女より男が少し過酷なところに行く)の家庭に入り込んで生活し、それを見て徳光和夫が涙するというバラエティ番組だったのだが、この番組のハリウッド映画版のようなものである。

この映画では芸能人ならぬ殺人課の刑事が、海外ならぬアメリカ国内の異世界、アーミッシュ共同体の中に入り込んで一緒に生活をする。ついでに(やはり主演がハリソン・フォードなだけに)美人の未亡人と恋に落ちるのである。

アーミッシュは名前だけは聞いていたものの、どういう人達なのか知らなかったので、この映画で初めて詳細を知った。ペンシルバニア州フィラデルフィア、極端なピューリタニズムとくればすぐ連想するのは言うまでもなくクエーカー教徒であり、生活様式や考え方が似ているので最初はクエーカーの分派なのかと思った。しかし彼らはドイツ語を喋っているので、どうやらクエーカーではないらしい。

ヴォルテールのイギリス持ち上げ本である『哲学書簡』には、クエーカーがかつてイギリスで「不服従で危険な一派」というカテゴリーに入っていた事情が書かれている。20世紀のクエーカー教徒は社会的・政治的にかなり力を持っていて、エスタブリッシュメント層に信者が多い一派であった。日本では、今上天皇の家庭教師であったヴァイニング夫人、国際連盟事務次長の新渡戸稲造、戦後最初の文部大臣でソニー初代社長の前田多聞などが有名である。

調べたところによると、アーミッシュの祖先がアメリカに移住してきたのは、やはりクエーカー教徒と同じような理由であった。クエーカーもアーミッシュも、主流のキリスト教よりもやや過激な信仰で、周囲とは明らかに違う生活様式を持っていて、見た目も一見異様なので、一方はイギリスで、もう一方はスイスやドイツで、かなり迫害を受けていた一派である。だからクエーカーはアメリカに渡って、自分たちの街フィラデルフィアを作った。アーミッシュは自分たちの街をアメリカに作ることはできなかったが、クエーカー教徒の指導者でペンシルバニア建設の父ウィリアム・ペンが招き寄せたものということだ。原理主義的な信仰、平和主義、質素な生活様式が、クエーカーとアーミッシュでは共通部分が多数あることもあり、親和性が高かったのであろう。私にはアーミッシュは世俗で成功できなかったクエーカー教徒のように見える。

アメリカ大陸は、ヨーロッパ人の侵略により国が建設されたという経緯があるものの、そのヨーロッパ人達も大陸やイギリスで迫害を受けていた人たちも多かった。アメリカ大陸は、いじめられ、さげすまれ、見捨てられた者達の希望の新天地でもあったのである。

この映画は、そのような人々の末裔が今も200年前の生活様式を頑なに守って生きている現在の状況を事細かく見せてくれる、とても勉強になる映画であった。思わぬ映画が歴史や宗教の勉強になるものだ。これだから映画を観るのは面白い。

刑事もののサスペンス・アクションというこの映画のもう一方の属性は、ありがちな勧善懲悪ドラマのテンプレ通りであった。

【映画】『雪国』 岩下志麻/加賀まりこ 1965年

映画

川端康成原作、大庭秀雄監督。当時24歳でとんでもなく美人の岩下志麻の表情や立ち振る舞いを惚れ惚れしながら鑑賞する映画である。

ロケ地は野沢温泉で、50年以上前の野沢温泉の風景や建物、外湯、蒸気機関車を観ることができる、貴重な映像資料でもある。映画の大部分は岩下志麻木村功の会話が中心である。

情緒不安定でキレたり泣いたり暴れたりする岩下志麻のメンヘラっぷりと、自分からは何もアクションせずただ傍観者として無反応のオウム返しばかりしている木村功の対照が印象的である。

二人の会話シーンは、岩下志麻は落ち着かず常に何かをしながら立ったり座ったりして喜怒哀楽を激しく表現しながら長台詞を喋るのだが、木村功はほとんど動かず無表情で相手の言うことをオウム返しに繰り返すばかりで、その様は荒れたメンヘラ患者をカウンセリングしているカウンセラーとの間の会話のようである。

遺産により死ぬまで労働から開放された裕福な妻子持ちのインテリが田舎の温泉村に現地妻を持ち、年に一度通うという話で、相手の駒子は芸者をやっている貧困層で苦しい生活を送っているが、彼が特にそれを助けたりするようなことはない。男は全ての良いところを取って人生を十分に楽しみ、相手の女は絶望の中に沈んていくという話である。

伊豆の踊子』もそうだが、旅先で下層階級の女からモテモテの裕福なインテリ男、というのは川端お好みの設定であろう。

昭和初期のクズ男の代表モデルは『人間失格』の葉蔵だが、『雪国』の島村も良く似たようなクズ男の属性を持っている。女にモテモテだが極めて冷淡で、相手を簡単に見殺しにするという属性である。

人間失格』の葉蔵は実際の行動はともかく、自分はクズ男だという自意識があり、その自意識そのものが物語の骨格となっていた。『人間失格』は醜さを醜さとして見せつける露悪趣味があった。『雪国』のクズ男は、傍観者としてただ周囲を鑑賞しているだけである。雪国の風景も、旅情も、自分の不遇さに打ちのめされてトチ狂ってしまった女も、彼にとっては等価であり、美しい日本の風景の一部なのである。

人間失格』は、相手に深入りして一緒に地獄に落ちるクズ男、『雪国』は、安全地帯から相手の困窮ぶりを眺めながら「清らかな心の女性」とか言っているクズ男である。

醜悪さを美しさでとても上手に隠蔽している分、こちらのクズっぷりの方がよりハイレベルで洗練されていると言ってよいのかもしれない。

【映画】『トップ・ハット』 フレッド・アステア/ジンジャー・ロジャース 1935年

映画

フレッド・アステアジンジャー・ロジャースの超人的なダンスが炸裂する、ミュージカル映画の原点。『燃えよドラゴン』を観た人が、身体性に圧倒されて身も心もブルース・リーで一杯になってしまうのと同じで、この映画を見た人は身も心も、男はフレッド・アステアに、女はジンジャー・ロジャースになってしまうだろう。

この作品が公開された1935年は昭和10年であり、実に85年前である。日本は二年前に国際連盟を脱退、翌年には二・二六事件が起きる。

アメリカでミュージカル映画が発生したのはこのような時代だったのだが、それにしても初期からの完成度の高さには驚かされる。

華麗なタップダンス、スピードとキレのあるペアダンス、高速の回転は、とてもデジャヴ感があるものである。それは何かというと、フィギュアスケートである。アステアとロジャースは床の上で踊っているのだが、まるでリンクの上で一流のスケートペアがアイスダンスを踊っているようなのだ。彼らのダンススキルは、オリンピックで演技する現代の一流フィギュアスケーター達となんら変わらない。むしろ摩擦係数の高い通常の床上で、男性は燕尾服に革靴、女性はロングドレスにハイヒール、その状態であれだけのスピードを出せるのはすごいものである。

現代のフィギュアスケートの元祖が、こういうところにあるのだということを教えてくれる貴重な作品である。

白黒なので一見古めかしく感じられるかもしれないが、観ているうちに、単に物珍しい古い映画としてではなく、一流のエンタテインメントとして楽しめる。映画は単に映像の綺麗さやCG技術だけではない、むしろそういう技術に依存すると作品としての面白さ、楽しさ、ワクワク感、臨場感が低減してしまう。映画に夢と希望とパワーがあった20世紀前半の作品は、軒並みクオリティが高い。

【美術鑑賞】『デトロイト美術館展』 上野の森美術館

美術鑑賞

 

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ゴッホゴーギャン展』『クラーナハ展』に続く、「上野 冬の美術展三部作」の三作目。上野公園の木々はすっかり葉が落ちて真冬のたたずまいであった。
上野の森美術館は3館の中で一番小ぶりだが、作品のバリエーションは一番多様だった。

19世紀から20世紀のヨーロッパの有名画家の作品をつまみ食いできる、お得な展覧会である。

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見慣れているものは安心感があり、見慣れないものは違和感がある。そういうありがちな感覚をよく確認させてくれた。多くの人が、印象派ピカソは見慣れているが、ドイツ表現主義はあまり馴染みがないのではないだろうか。自分もそうである。なのでドイツ表現主義の絵はどうにも消化しにくかった。キルヒナーの風景画は、なぜ空がこんな色をしているのだろうか。

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ヨーロッパの絵画は、分かりやすいのは19世紀までで、20世紀からは分かりにくくなる。20世紀になると、モノの形象をどんどん崩して描くようになり、最後は殴り描きになってしまうからだ。ピカソの絵なども、晩年の作品は子供の落書きにかなり近い。ポロックなどはもう乱雑な模様のようである。

形象を崩壊させていくプロセスの背景には、人間の理性によるコントロールに対する嫌悪感のようなものがある。こういう傾向の分水嶺になったのはもちろんニーチェフロイトなのだが、「秩序的なもの⇒無秩序なもの」あるいは「連続的なもの⇒断続的もの」への流れは、絵画の世界で文字通り可視化されている。

これは特に目新しい動きではなく、古代ギリシアの時代に「ピュシス(自然)⇔ノモス(人工)」の対立軸があり、近代ではルソーが「自然に帰れ」と叫んだところのものである。ロマン主義と革命は親和性が高い。メンヘラは革命である。シュールレアリズム、抽象絵画表現主義アウトサイダー・アート、いずれも「自然に帰れ」の見かけ上新しい古いヴァリエーションにすぎないものである。ルソーが高度な「メンヘラ」であったのと同じように、「メンヘラ」が主役のアウトサイダー・アートは現代に蘇ったルソー主義である。「近代」というものはもともと「自然」を志向するものなのだ。人工の極限であるキリスト教会に対抗するためには「自然」に傾倒することが、ラディカルなのだ。なぜなら人間は自然の一部であるから、「自然」は「人工」を包摂する概念になるからである。西洋哲学史上もっともラディカルな主張をした哲学者の一人であるヒュームの主著の題名は「Treatise of Human nature 」である。人工的なものに根拠はない。全ては信念にすぎない。

古典的な経済学の「レッセ・フェール」もこの「自然」から来ている。「自由市場」の「自由」とはとどのつまり「自然に任せる」ということである。人為的な秩序を構築しようとするより、人間の欲望という「自然」に任せたほうが社会はうまくゆく。

一見混沌とした無秩序の延長線上には、究極の秩序があるのだ。「ジャクソン・ポロックの絵画の中に精密なフラクタル構造が隠されている!」というような物理学者の研究が発表されたりするのも、このためである。

「無秩序なもの」が結局「メンヘラ的なもの」や「倒錯的なもの」を経て、「乱雑なもの」へと回収されていくのが20世紀の流れである。その分水嶺になったのがゴッホで、そこからシュールレアリズムを経由して、抽象絵画からアウトサイダー・アートに突き進んでいるのが現代のようだ。ベーコンも、ポロックも、ZOZO TOWNの前澤友作が62億円で購入したことで話題になったバスキアも、皆そうである。

意識的に無意識的な絵を書くシュールレアリストも、写実的な絵からキュビズムを経て子供の落書きまで一人で何役もこなしてしまう器用なピカソも、「暴力的でサディスティックなゲイ」属性を絵にぶちまけるベーコンも、アルコールや薬物に溺れるポロックやバスキアも、目指すところは同じである。それぞれが違う道程を踏んでいるのだ。

行き着くところまで行ったら次はどうなるか。無秩序な絵画は、王侯貴族にとっての絵画がそうであったように、近年新たに出現した種族である「富豪族」の人達の、承認欲求と、選民意識と、資産保全欲を満たす為の、投資物件になっていくのではないだろうか。

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【映画】『伊豆の踊り子』 吉永小百合/高橋英樹 1963年

映画

監督は西河克己。50年以上前、東京オリンピックの前年に公開されたアイドル映画。吉永小百合高橋英樹もまだ存命であるから、それほど昔ではないはずなのだが、実に54年も前の作品なのである。吉永小百合18歳、高橋英樹19歳。当時まだ存命中だった川端康成が撮影の見学に来ている。それほど古い作品なのだ。この映画は吉永小百合の可愛らしさと、高橋英樹の男前っぷりと、二人の儚くも爽やかな恋を楽しむものである。

舞台設定は川端康成が伊豆の一人旅をした19歳の時、1918年(大正7年)だから、100年ほど前である。1914年に始まった第一次世界大戦が終結した年だ。鑑賞者はこの映画を通じて、100年前の日本の様子を物語世界の中で体験することができる。

登場人物の中で唯一洋装なのが高橋英樹だが、彼とて学生帽に学ラン、下駄履きである。他はみな和服で、女性は髪を結っているので、時代劇を観ているようである。旅芸人の出し物もどじょうすくいや国定忠治だ。

川端康成は当時、旧制第一高等学校の学生であった。今の東大生とは比べ物にならないくらいの、エリート中のエリートである。エリートはそれだけで高位の身分の扱いをうける。だから映画中の高橋英樹は、どこに行っても懇切丁寧な扱いをうける。

旅芸人は乞食と同等の扱いで、とても差別されている。劇中に出てくる吉永小百合(16歳という設定)の同年代の女性は、死んだらゴミのように捨てられる売春婦たちである。

経済格差だけでなく身分格差が歴然としている中で、トップエリート階級の高橋英樹と、賤民階級の吉永小百合が一時の旅の道連れとして恋愛をするのである。

吉永小百合高橋英樹との間の身分差をよく自覚している。この映画の中で印象的なシーンは二人が五目並べをするシーンだが、吉永は高橋に対して座布団を差し出し高橋はそれに座るのだが、自分は座布団を使わず直に畳に座る。また吉永の兄の大坂志郎はわざわざ送り迎えをしたりカバンを持ったりするのである。まるで自分たちが高橋の召使でもあるかのように。

一方高橋は決して尊大な態度を取るわけではなく、接するすべての人達に丁寧で礼儀正しい態度をとる。それどころか彼らに対して心づけや法事の香典を渡したりするのである。

身分の低い女とエリート学生という組み合わせで真っ先に思い浮かべるのは、『レ・ミゼラブル』のファンティーヌである。彼女は貴族学生との間にコゼットを作ったが捨てられ、コゼットをテナルディエに預けて職を失い、売春婦になり絶望の中で死ぬのである。

幸いにしてこの映画ではそのようなことにはならなかった。エリート学生の高橋は吉永に対してもとても紳士的に振る舞って終わった。エリート側は差別的態度を微塵も出さなかった。

一方それ以外の登場人物達は粗雑で差別的で卑屈である。これは当時の日本社会を反映しているところもあろうが、吉永小百合高橋英樹を清潔に美しく爽やかに見せるために構成されたキャラクター配置なのであろう。

【映画】『スティング』 ジョージ・ロイ・ヒル The Sting 1973年

映画

この映画は何も知らない状態で観て、映画製作者に「してやられる」のが一番楽しい観方だ。ストーリーをバラすのは野暮というものである。

1974年に公開されたジャック・ニコルソン主演の『チャイナタウン』は、舞台設定が1930年代後半のロサンゼルスであった。ポール・ニューマンロバート・レッドフォード主演の『スティング』は1973年公開で、舞台設定が1936年のシカゴである。当初ゴンドーフ役はポール・ニューマンではなくジャック・ニコルソンにオファーされていたそうで、ジャック・ニコルソンの売れっ子ぶりが伺える。場所が離れているせいなのか、『チャイナタウン』より『スティング』の方が少しクラシックな感じがする。

どちらも登場人物の男性の衣装がとても素敵である。以前1937年(昭和12年)の東京の朝の通勤風景の写真を見たことがあるが、そこに写っているサラリーマンもこれらの映画のような仕立てのスーツを着て帽子を被っていて、昭和初期の男性のフォーマルな格好のシックさは惚れ惚れするものがある。

映画を観ると必ずWikipediaで俳優や監督の項目を確認する。以前スピルバーグジョーズ』を観たあとに、クイント船長とこの映画のロネガンが同じ俳優であることを知った。今まで全くそれに気づいていなかったのだが、俳優や監督についての情報が手軽に入手できる時代になって、観たことがある映画でも新しい発見をすることができ、映画を観る楽しみが大分増えた。

音楽ももともとはこの映画用のものではなく、1902年に作曲されたクラシカルな曲で、この映画の製作より70年も昔である。私たちには『スティング』のテーマとして脳裏に焼き付いてしまっている。古い名曲をよく保存して後世に伝える機能を映画が果たす良き例であろう。

DVDに付属しているキャストインタビューのドキュメンタリービデオを観て初めて知ったのは、ロネガンがびっこを引いているのはロバート・ショウが怪我をしたためそういう設定にしたという事実だった。ロネガンがびっこを引いているのが、彼のアウトローで怖い部分をよく表現していてこの映画で印象に残る部分であったので、これは新しい収穫であった。

【映画】『市民ケーン』 オーソン・ウェルズ 1941年

映画

この映画を観るにつけても思い出すのが『グレート・ギャツビー』である。

ケーンもギャツビーもそれほど悪人ではない。彼らは周囲の人に横暴な振る舞いをするどころか、とても気前よくする。ギャツビーは連日パーティーをするし、ケーンはライバル会社から引き抜いた記者達のために豪華なパーティーをしたり、解雇した従業員に2万5千ドルを支払おうとしたり、2人目の妻のために歌劇場を建設したりする。ケーンが厳しく当たるのはビジネス上のライバルの会社や政治上の敵であって、身内にとってはそれほど脅威になる人物ではないのだ。

ギャッツビーもケーンも「成り上がり者」である。ギャツビーは(おそらく非合法な)ビジネスで財を成し、ケーンはたまたま大金を入手した両親から財産を受け継ぐ。両者に共通しているのは、財産の適正な使い方を知らなかったことであり、それがゆえに周囲の人々から軽んじられ、冷たくあしらわれる人生を送ったのである。

大きな資産、それを代表するお金というものは、ある一定の分量を超えると、個人の所有物ではなくなる。それはその人の所属するコミュニティーの共有財産であり、その人はその財産を預かっているだけという暗黙の扱いを受ける。だから自分の為だけにお金を使用する金持ちは好かれない。成り上がり者は、コミュニティーにお金を還元する方法を知らないため、お金の使い方が素っ頓狂なものになる。

ギャツビーはデイジーをおびき寄せる撒き餌のために自分の財産を使用しただけだった。ケーンにとっては新聞社経営は赤字でも構わない趣味のようなものであった。ギャツビーもケーンも有り余るお金は豪華な屋敷や趣味のコレクションに行かざるを得なかった。

「人も羨むような莫大な資産を持っている人物が(お金では買えない)他人からの好意を得ることができず、結局失意のうちに孤独の中に死なざるを得なかった」というストーリーは、鑑賞者に安心感を与える。誰もが「全てを持っている人」より、「大きなプラスを別の大きなマイナスでバランスさせている人」の方が好きである。だから『リア王』のような悲劇が成立するのだ。莫大な権力と資産の究極形態である王が悲惨な死を遂げることこそ、バランスを感じさせるものはない。バランスとは「正義」そのものなのである。だからこそ弁護士バッジには天秤が描かれるのだ。

ギャッツビーもケーンも根は悪い人ではない。むしろ、対人関係ではちょっと抜けているところがある善人である。だが大きな資産が暗黙に求める責任は、それを所有する人間が単なる善人であることを許さないのである。資産を形成することにも、資産を使用することにも、正当化するにはそれなりにふさわしい物語が求められるのだ。