ジェントルかっぱのブログ

読書、映画、美術鑑賞

【美術鑑賞】『デトロイト美術館展』 上野の森美術館

 

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ゴッホゴーギャン展』『クラーナハ展』に続く、「上野 冬の美術展三部作」の三作目。上野公園の木々はすっかり葉が落ちて真冬のたたずまいであった。
上野の森美術館は3館の中で一番小ぶりだが、作品のバリエーションは一番多様だった。

19世紀から20世紀のヨーロッパの有名画家の作品をつまみ食いできる、お得な展覧会である。

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見慣れているものは安心感があり、見慣れないものは違和感がある。そういうありがちな感覚をよく確認させてくれた。多くの人が、印象派ピカソは見慣れているが、ドイツ表現主義はあまり馴染みがないのではないだろうか。自分もそうである。なのでドイツ表現主義の絵はどうにも消化しにくかった。キルヒナーの風景画は、なぜ空がこんな色をしているのだろうか。

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ヨーロッパの絵画は、分かりやすいのは19世紀までで、20世紀からは分かりにくくなる。20世紀になると、モノの形象をどんどん崩して描くようになり、最後は殴り描きになってしまうからだ。ピカソの絵なども、晩年の作品は子供の落書きにかなり近い。ポロックなどはもう乱雑な模様のようである。

形象を崩壊させていくプロセスの背景には、人間の理性によるコントロールに対する嫌悪感のようなものがある。こういう傾向の分水嶺になったのはもちろんニーチェフロイトなのだが、「秩序的なもの⇒無秩序なもの」あるいは「連続的なもの⇒断続的もの」への流れは、絵画の世界で文字通り可視化されている。

これは特に目新しい動きではなく、古代ギリシアの時代に「ピュシス(自然)⇔ノモス(人工)」の対立軸があり、近代ではルソーが「自然に帰れ」と叫んだところのものである。ロマン主義と革命は親和性が高い。メンヘラは革命である。シュールレアリズム、抽象絵画表現主義アウトサイダー・アート、いずれも「自然に帰れ」の見かけ上新しい古いヴァリエーションにすぎないものである。ルソーが高度な「メンヘラ」であったのと同じように、「メンヘラ」が主役のアウトサイダー・アートは現代に蘇ったルソー主義である。「近代」というものはもともと「自然」を志向するものなのだ。人工の極限であるキリスト教会に対抗するためには「自然」に傾倒することが、ラディカルなのだ。なぜなら人間は自然の一部であるから、「自然」は「人工」を包摂する概念になるからである。西洋哲学史上もっともラディカルな主張をした哲学者の一人であるヒュームの主著の題名は「Treatise of Human nature 」である。人工的なものに根拠はない。全ては信念にすぎない。

古典的な経済学の「レッセ・フェール」もこの「自然」から来ている。「自由市場」の「自由」とはとどのつまり「自然に任せる」ということである。人為的な秩序を構築しようとするより、人間の欲望という「自然」に任せたほうが社会はうまくゆく。

一見混沌とした無秩序の延長線上には、究極の秩序があるのだ。「ジャクソン・ポロックの絵画の中に精密なフラクタル構造が隠されている!」というような物理学者の研究が発表されたりするのも、このためである。

「無秩序なもの」が結局「メンヘラ的なもの」や「倒錯的なもの」を経て、「乱雑なもの」へと回収されていくのが20世紀の流れである。その分水嶺になったのがゴッホで、そこからシュールレアリズムを経由して、抽象絵画からアウトサイダー・アートに突き進んでいるのが現代のようだ。ベーコンも、ポロックも、ZOZO TOWNの前澤友作が62億円で購入したことで話題になったバスキアも、皆そうである。

意識的に無意識的な絵を書くシュールレアリストも、写実的な絵からキュビズムを経て子供の落書きまで一人で何役もこなしてしまう器用なピカソも、「暴力的でサディスティックなゲイ」属性を絵にぶちまけるベーコンも、アルコールや薬物に溺れるポロックやバスキアも、目指すところは同じである。それぞれが違う道程を踏んでいるのだ。

行き着くところまで行ったら次はどうなるか。無秩序な絵画は、王侯貴族にとっての絵画がそうであったように、近年新たに出現した種族である「富豪族」の人達の、承認欲求と、選民意識と、資産保全欲を満たす為の、投資物件になっていくのではないだろうか。

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【映画】『伊豆の踊り子』 吉永小百合/高橋英樹 1963年

監督は西河克己。50年以上前、東京オリンピックの前年に公開されたアイドル映画。吉永小百合高橋英樹もまだ存命であるから、それほど昔ではないはずなのだが、実に54年も前の作品なのである。吉永小百合18歳、高橋英樹19歳。当時まだ存命中だった川端康成が撮影の見学に来ている。それほど古い作品なのだ。この映画は吉永小百合の可愛らしさと、高橋英樹の男前っぷりと、二人の儚くも爽やかな恋を楽しむものである。

舞台設定は川端康成が伊豆の一人旅をした19歳の時、1918年(大正7年)だから、100年ほど前である。1914年に始まった第一次世界大戦が終結した年だ。鑑賞者はこの映画を通じて、100年前の日本の様子を物語世界の中で体験することができる。

登場人物の中で唯一洋装なのが高橋英樹だが、彼とて学生帽に学ラン、下駄履きである。他はみな和服で、女性は髪を結っているので、時代劇を観ているようである。旅芸人の出し物もどじょうすくいや国定忠治だ。

川端康成は当時、旧制第一高等学校の学生であった。今の東大生とは比べ物にならないくらいの、エリート中のエリートである。エリートはそれだけで高位の身分の扱いをうける。だから映画中の高橋英樹は、どこに行っても懇切丁寧な扱いをうける。

旅芸人は乞食と同等の扱いで、とても差別されている。劇中に出てくる吉永小百合(16歳という設定)の同年代の女性は、死んだらゴミのように捨てられる売春婦たちである。

経済格差だけでなく身分格差が歴然としている中で、トップエリート階級の高橋英樹と、賤民階級の吉永小百合が一時の旅の道連れとして恋愛をするのである。

吉永小百合高橋英樹との間の身分差をよく自覚している。この映画の中で印象的なシーンは二人が五目並べをするシーンだが、吉永は高橋に対して座布団を差し出し高橋はそれに座るのだが、自分は座布団を使わず直に畳に座る。また吉永の兄の大坂志郎はわざわざ送り迎えをしたりカバンを持ったりするのである。まるで自分たちが高橋の召使でもあるかのように。

一方高橋は決して尊大な態度を取るわけではなく、接するすべての人達に丁寧で礼儀正しい態度をとる。それどころか彼らに対して心づけや法事の香典を渡したりするのである。

身分の低い女とエリート学生という組み合わせで真っ先に思い浮かべるのは、『レ・ミゼラブル』のファンティーヌである。彼女は貴族学生との間にコゼットを作ったが捨てられ、コゼットをテナルディエに預けて職を失い、売春婦になり絶望の中で死ぬのである。

幸いにしてこの映画ではそのようなことにはならなかった。エリート学生の高橋は吉永に対してもとても紳士的に振る舞って終わった。エリート側は差別的態度を微塵も出さなかった。

一方それ以外の登場人物達は粗雑で差別的で卑屈である。これは当時の日本社会を反映しているところもあろうが、吉永小百合高橋英樹を清潔に美しく爽やかに見せるために構成されたキャラクター配置なのであろう。

【映画】『スティング』 ジョージ・ロイ・ヒル The Sting 1973年

この映画は何も知らない状態で観て、映画製作者に「してやられる」のが一番楽しい観方だ。ストーリーをバラすのは野暮というものである。

1974年に公開されたジャック・ニコルソン主演の『チャイナタウン』は、舞台設定が1930年代後半のロサンゼルスであった。ポール・ニューマンロバート・レッドフォード主演の『スティング』は1973年公開で、舞台設定が1936年のシカゴである。当初ゴンドーフ役はポール・ニューマンではなくジャック・ニコルソンにオファーされていたそうで、ジャック・ニコルソンの売れっ子ぶりが伺える。場所が離れているせいなのか、『チャイナタウン』より『スティング』の方が少しクラシックな感じがする。

どちらも登場人物の男性の衣装がとても素敵である。以前1937年(昭和12年)の東京の朝の通勤風景の写真を見たことがあるが、そこに写っているサラリーマンもこれらの映画のような仕立てのスーツを着て帽子を被っていて、昭和初期の男性のフォーマルな格好のシックさは惚れ惚れするものがある。

映画を観ると必ずWikipediaで俳優や監督の項目を確認する。以前スピルバーグジョーズ』を観たあとに、クイント船長とこの映画のロネガンが同じ俳優であることを知った。今まで全くそれに気づいていなかったのだが、俳優や監督についての情報が手軽に入手できる時代になって、観たことがある映画でも新しい発見をすることができ、映画を観る楽しみが大分増えた。

音楽ももともとはこの映画用のものではなく、1902年に作曲されたクラシカルな曲で、この映画の製作より70年も昔である。私たちには『スティング』のテーマとして脳裏に焼き付いてしまっている。古い名曲をよく保存して後世に伝える機能を映画が果たす良き例であろう。

DVDに付属しているキャストインタビューのドキュメンタリービデオを観て初めて知ったのは、ロネガンがびっこを引いているのはロバート・ショウが怪我をしたためそういう設定にしたという事実だった。ロネガンがびっこを引いているのが、彼のアウトローで怖い部分をよく表現していてこの映画で印象に残る部分であったので、これは新しい収穫であった。

【映画】『市民ケーン』 オーソン・ウェルズ 1941年

この映画を観るにつけても思い出すのが『グレート・ギャツビー』である。

ケーンもギャツビーもそれほど悪人ではない。彼らは周囲の人に横暴な振る舞いをするどころか、とても気前よくする。ギャツビーは連日パーティーをするし、ケーンはライバル会社から引き抜いた記者達のために豪華なパーティーをしたり、解雇した従業員に2万5千ドルを支払おうとしたり、2人目の妻のために歌劇場を建設したりする。ケーンが厳しく当たるのはビジネス上のライバルの会社や政治上の敵であって、身内にとってはそれほど脅威になる人物ではないのだ。

ギャッツビーもケーンも「成り上がり者」である。ギャツビーは(おそらく非合法な)ビジネスで財を成し、ケーンはたまたま大金を入手した両親から財産を受け継ぐ。両者に共通しているのは、財産の適正な使い方を知らなかったことであり、それがゆえに周囲の人々から軽んじられ、冷たくあしらわれる人生を送ったのである。

大きな資産、それを代表するお金というものは、ある一定の分量を超えると、個人の所有物ではなくなる。それはその人の所属するコミュニティーの共有財産であり、その人はその財産を預かっているだけという暗黙の扱いを受ける。だから自分の為だけにお金を使用する金持ちは好かれない。成り上がり者は、コミュニティーにお金を還元する方法を知らないため、お金の使い方が素っ頓狂なものになる。

ギャツビーはデイジーをおびき寄せる撒き餌のために自分の財産を使用しただけだった。ケーンにとっては新聞社経営は赤字でも構わない趣味のようなものであった。ギャツビーもケーンも有り余るお金は豪華な屋敷や趣味のコレクションに行かざるを得なかった。

「人も羨むような莫大な資産を持っている人物が(お金では買えない)他人からの好意を得ることができず、結局失意のうちに孤独の中に死なざるを得なかった」というストーリーは、鑑賞者に安心感を与える。誰もが「全てを持っている人」より、「大きなプラスを別の大きなマイナスでバランスさせている人」の方が好きである。だから『リア王』のような悲劇が成立するのだ。莫大な権力と資産の究極形態である王が悲惨な死を遂げることこそ、バランスを感じさせるものはない。バランスとは「正義」そのものなのである。だからこそ弁護士バッジには天秤が描かれるのだ。

ギャッツビーもケーンも根は悪い人ではない。むしろ、対人関係ではちょっと抜けているところがある善人である。だが大きな資産が暗黙に求める責任は、それを所有する人間が単なる善人であることを許さないのである。資産を形成することにも、資産を使用することにも、正当化するにはそれなりにふさわしい物語が求められるのだ。

【映画】『Smoke』 ウェイン・ワン / ポール・オースター 1995年

クリスマス・イブの恵比寿ガーデンシネマで、特段の前提知識もないまま偶然この映画を観た。ジーンと感動した。クリスマスにふさわしい物語といえばディケンズの『クリスマス・キャロル』やケストナーの『飛ぶ教室』が定番であるが、この『Smoke』もクリスマスに観るのにとてもふさわしい映画であった。

この映画においてはポール・オースターの優れた脚本と、俳優の演技、特にオーギー役のハーヴェイ・カイテルのすばらしい演技が、圧倒的な勝利をおさめている。登場人物が善人ばかりというのも、安心して観られる要素だ。

タバコというのは、追い詰められた人々が現実逃避するのに欠かせないポピュラーな薬物だ。『野火』のような戦争映画や『ショーシャンクの空に』のような監獄映画を観る人はよく知っていることだが、タバコは極限状況にある人間の最後の逃避先であり、地獄の中ですらも流通する通貨である。この映画におけるタバコもそのような役割をもっており、登場人物たちの心のバランスを調整するアイテムとして活躍する。1995年というとそれほど昔という感じはしないのだが、当時と現代でのタバコに対する扱いの落差に、隔世の感がする。

本作の登場人物は皆貧しく、苦しい過去を背負い、心も体も傷ついた状態で生きている。実際そのうちの一人は片目がなく、一人は片腕がない。そして主要な登場人物に共通しているのが「思いやりがあって、やさしい」という属性である。特にタバコ屋店主のオーギーと作家のポール、ガレージ店主のサイラスは、虐げられて崖っぷちに立っている黒人少年のラシードに、救いの手を指しのべる。ラシードも賢くて優しい少年だ。だが彼は子供の頃からあまりにも虐待されすぎていて、他人に心を開くのが難しい。

虐げられてうかつに他人に心を開くことができない人が常用する自己防衛手段、それが「嘘」である。だからこの映画の登場人物はよく嘘をつく。嘘が人間関係にもたらす最終的効果は、地盤に蓄積された歪みのエネルギーが、やがて地震を発生させるメカニズムと同じである。登場人物が密かにつく嘘がエネルギーを蓄積し、真実が明らかになるとき、彼らの心は振動する。もちろん映画を鑑賞している私達の心も揺さぶられる。だからこの映画のクライマックスは、ラシードの父のサイラスが「嘘だ!」と叫ぶシーンなのである。

哲学の「真理」の概念には、2種類ある。一つ目は古代のパルメニデスの時代から近代のデカルトを経由して現代のヴィトゲンシュタインに至るまで採用されている伝統的なもので、「思考と現実が一致すること(思惟と存在の一致)」がそれだ。もう一つは現代になってニーチェハイデガーによって強調されたもので、「覆い隠されたものがあらわになること」がそれである。前者と後者の大きな違いはそれがもたらす効果である。前者は論理の明晰さにより、世界の中に今まで知られていなかった関連性が存在することが発見され、新たなテクノロジーを作り出し、世界を改変していく。後者は丁度探偵の捜査により隠されていた事実が明らかになるようなもので、それを知った人たちの社会的関係の変化が発生する。前者は経験的科学的で後者は規範的道徳的である。

煙幕という言葉があるが、煙は真実を覆い隠す働きをする。登場人物達の苦悩は、罪は、恨みや憎しみは、「嘘」という「スモーク」で覆い隠さなければならない。その苦悩があまりにも強い場合には、自分自身に対しても「スモーク」で覆い隠さねばならない。それは人間が正気を保って生きていくために必要なものである。だから人々はタバコを吸うのだし、煙を吐かなければならないのだ。

「嘘」は作用と副作用をもたらす。作用は今まで述べてきたとおり、苦悩を忘れ、一時的にでもなかったことにすることによって、心を守る作用だ。副作用は、それが秘密になることによって孤独になることだ。嘘とは秘密である。嘘によって大きな苦悩から避けることができた心は、その代償として孤独という別の副作用を引き受けなければならない。

だから、嘘をつく人は、いつかどこかでその秘密を共有できる者を見つけたいと願う。この映画の登場人物達は、秘密を共有できる人を見つけることができる、思いやりがあって、優しく、賢い人々だった。

この映画は人々の嘘が次第次第に明らかになり各人に共有されるプロセスが描かれている。それらの嘘の全てに関わり、全ての真実を知るものが、タバコ屋の主人オーギーである。映画のラストは、そのオーギーが、かつて自分がついた嘘がもたらした結果を、信頼する友であるポールに打ち明けることによって完結するのである。これで全ての真実が明らかになり、映画の観客、鑑賞者である私たちに知られることになる。鑑賞者は皆、彼らの苦悩を共有するのだ。鑑賞者は彼らの苦悩を一時的にでも引き受け、一緒に悩む者になる。彼らの人生の苦しみが他人事ではなくなる。

この映画は、そのようにして鑑賞者の心をゆさぶる映画なのである。

【映画】『白夜』 ルキーノ・ヴィスコンティ 1957年

Wikipediaにある「ナポリタン」という記事によると、ナポリタンスパゲティはイタリアのナポリで食べられているパスタとは何の関係もないそうだ。ナポリタンに限らず、焼き餃子やカレーライスの様に外国の料理が他国に渡って全く異なる味付けになるというのはよくある話であるが、これは文学や映画の世界でもよく起こる。

ヴェニスに死す』のヴィスコンティが監督した映画『白夜』の原作はドストエフスキーである。でもこの映画は、ナポリタンスパゲティがイタリアのものではなく和風の料理であるのと同じで、全くドストエフスキー的ではなく、いかにもイタリア風に味付けされた作品である。

主人公のマリオは設定では孤独な青年らしいのだが、イケメンで女性からはモテモテだし、意中の女性に果敢にアタックする極めて積極的な肉食系青年である。もういかにもイタリア人らしい情熱っぷりである。こんな主人公に、ドストエフスキーの登場人物らしさは見受けられない。

ストーリーは決して明るいものではないはずなのだが、観終わったあとに全てをやりきった爽やかさが漂うのはいかがなものか。爽やかさにドストエフスキーは似合わない。強いて言えば、『罪と罰』などは爽やかな終わり方といえるかも知れないが、ラスコーリニコフはかなり屈折した青年であって、この映画の主人公のように「女性を情熱的に求めて愛して一直線」という感じではない。

男はつらいよ』の次にこの映画を観ると、あまりのギャップにクラクラする。寅さんはこういう映画を見て、女性に対する情熱的なアタックの仕方を勉強すれば、48回もフラれることなく一度くらいは成功したのではないだろうか。

とは言ってもこの映画には面白い見どころが沢山ある。

イタリアの港町のセット、主人公が住んでいる寮の様子、口は悪くて機関銃のように喋るが面倒見の良いおばさん、ヒロインであるナタリアの、まるで風の谷のナウシカに出てくる大ばば様のような祖母、登場人物達のビシっときめたかっこいいファッション、情熱的で激しいダンスシーン、二人の顔が超ドアップで映る、昔の欧米映画らしいラブシーンのカメラワーク、初対面からメッチャ距離が近い男女関係、喜怒哀楽が激しく泣いたり笑ったり忙しい、情緒不安定で面倒くさそうな、だがアイドルのような笑顔でとても愛くるしい美人のヒロイン・・・映画の楽しみが沢山詰まっている。

この映画もまた1950年代、パワフルな作品が沢山作られた黄金時代の作品である。昔の白黒映画を発掘して鑑賞する楽しみを十分味あわせてくれるイタリア映画である。

【映画】『続・男はつらいよ』 山田洋次 1969年

寅さんシリーズ第2作。マドンナは佐藤オリエ。佐藤オリエは賀来千香子に少し似た細身で知的な感じのする美人で、彫刻家の娘である。劇中では東野英治郎扮する退職者英語教師の娘、寅さんのかつての同級生の役であった。

寅さんの悲劇の一因は自分より社会階層が上の女性に熱を上げてしまうことである。下位階層の女性が上位階層の男性とくっつくいわゆる上昇婚はあっても、その逆は極めてまれだ。例外は男性が極めてイケメンであったり特殊な才能を持っていたりという、階層ギャップを埋めるような要素がある場合に限られる。

寅さんは階層ギャップを埋めるだけの明確なアドバンテージがなく、むしろブサイクという、恋愛にはかなり不利なハンデを背負っている存在なので、その恋は常に敗れるのである。

男性には恋愛向きの男性と恋愛不向きの男性がおり、もちろん寅さんは後者である。寅さんが上層階層の女性と恋愛しようとするのは、魚が空を飛ぼうとするようなものである。実際今回のマドンナの夏子も寅さんは男としては眼中になく自分より社会階層が同一以上の医者を相手に選ぶのである。

恋愛と結婚が一直線につながっていない時代は同一社会階層内でお見合いして結婚するのが主流であった。

お見合いは階層内の成員をマッチングさせて、つがいを組ませて再生産させることにより、社会階層を自己強化していく、自律的階層保全システムである。

社会はレイヤーに分かれているが、そのレイヤーを構成する単位は親族あるいは家族であり、同一レイヤーの家族同士が婚姻関係を結ぶことによってレイヤー内を補強することができる。政略結婚という言葉があるが、結婚というのは本質的に政略結婚である。だから政略結婚が意味をなさない社会では、結婚そのものがされなくなっていくのである。その意味では恋愛結婚は矛盾した概念であって、恋愛結婚の究極型は、恋愛も結婚もない社会である。恋愛と結婚の関係は物質と反物質に似ている。両者は融合することによって、対消滅する運命にある。現在はその過渡期である。

寅さんの時代は見合いから恋愛へ結婚形態が移行していく過渡期の初動であったため、その間に落ち込んだ寅さんは、永遠に結婚できない無限ループを繰り返さざるを得なかった。

1969年時点で38歳の設定の寅さんは、昭和6年生まれである。この時代には親に捨てられた子、妾の子、芸者の子というのはとてもありふれたものであった。そのように生まれたときから深い傷を負って、幼少から虐げられきた人間は、逃げたくても逃げられない自分、劣等な自分、愛されなかった自分にがっしりと捕まえられている。多くの人は死ぬまでそこから逃れられない。

寅さんの放浪癖というのは、劣等感から逃走する試みである。だが自分はどこに行っても自分についてくるものであって、そこから逃げることはできない。だから寅さんは柴又と各地の間の永遠の往復運動を繰り返すのである。

自罰的傾向があまりに強すぎるため、他者から愛される能力がそれによって相殺されてしまう。それが表現されているのが、寅さんが時折見せる「照れた表情」と「強がった乱暴な振る舞い」と「浮かれた大はしゃぎ」である。これらは自己肯定感が薄い人たちが見せる特徴的な行動様式である。『男はつらいよ』はこの3つのモードを、スイッチを切り替えながら行ったり来たりする寅さんを鑑賞し続ける映画なのである。

寅さんを、周囲の人々はいつもハラハラしながら見守っている。さくらもおいちゃんもおばちゃんもひろしもタコ社長も、寅さんに対しては礼儀正しく、暖かく、優しい。人から見下されるのがなによりもこたえる寅さんに対して彼らは決して上から目線にならず(御前様は例外である)、全てを無条件に受け入れる母親のような態度で接する。彼らがいなければ寅さんは生きては行けないであろう。

今回は寅さんの実母が登場するのだが、実母は母性で包み込むような人ではなく、頭の回転の良さと抜け目のなさを武器にして、世知辛い世の中をサバイバルしていく能力に長けた人である。寅さんが母から受け継いだのはこういった性質であった。