ジェントルかっぱのブログ

読書、映画、美術鑑賞

【映画】『Smoke』 ウェイン・ワン / ポール・オースター 1995年

クリスマス・イブの恵比寿ガーデンシネマで、特段の前提知識もないまま偶然この映画を観た。ジーンと感動した。クリスマスにふさわしい物語といえばディケンズの『クリスマス・キャロル』やケストナーの『飛ぶ教室』が定番であるが、この『Smoke』もクリスマスに観るのにとてもふさわしい映画であった。

この映画においてはポール・オースターの優れた脚本と、俳優の演技、特にオーギー役のハーヴェイ・カイテルのすばらしい演技が、圧倒的な勝利をおさめている。登場人物が善人ばかりというのも、安心して観られる要素だ。

タバコというのは、追い詰められた人々が現実逃避するのに欠かせないポピュラーな薬物だ。『野火』のような戦争映画や『ショーシャンクの空に』のような監獄映画を観る人はよく知っていることだが、タバコは極限状況にある人間の最後の逃避先であり、地獄の中ですらも流通する通貨である。この映画におけるタバコもそのような役割をもっており、登場人物たちの心のバランスを調整するアイテムとして活躍する。1995年というとそれほど昔という感じはしないのだが、当時と現代でのタバコに対する扱いの落差に、隔世の感がする。

本作の登場人物は皆貧しく、苦しい過去を背負い、心も体も傷ついた状態で生きている。実際そのうちの一人は片目がなく、一人は片腕がない。そして主要な登場人物に共通しているのが「思いやりがあって、やさしい」という属性である。特にタバコ屋店主のオーギーと作家のポール、ガレージ店主のサイラスは、虐げられて崖っぷちに立っている黒人少年のラシードに、救いの手を指しのべる。ラシードも賢くて優しい少年だ。だが彼は子供の頃からあまりにも虐待されすぎていて、他人に心を開くのが難しい。

虐げられてうかつに他人に心を開くことができない人が常用する自己防衛手段、それが「嘘」である。だからこの映画の登場人物はよく嘘をつく。嘘が人間関係にもたらす最終的効果は、地盤に蓄積された歪みのエネルギーが、やがて地震を発生させるメカニズムと同じである。登場人物が密かにつく嘘がエネルギーを蓄積し、真実が明らかになるとき、彼らの心は振動する。もちろん映画を鑑賞している私達の心も揺さぶられる。だからこの映画のクライマックスは、ラシードの父のサイラスが「嘘だ!」と叫ぶシーンなのである。

哲学の「真理」の概念には、2種類ある。一つ目は古代のパルメニデスの時代から近代のデカルトを経由して現代のヴィトゲンシュタインに至るまで採用されている伝統的なもので、「思考と現実が一致すること(思惟と存在の一致)」がそれだ。もう一つは現代になってニーチェハイデガーによって強調されたもので、「覆い隠されたものがあらわになること」がそれである。前者と後者の大きな違いはそれがもたらす効果である。前者は論理の明晰さにより、世界の中に今まで知られていなかった関連性が存在することが発見され、新たなテクノロジーを作り出し、世界を改変していく。後者は丁度探偵の捜査により隠されていた事実が明らかになるようなもので、それを知った人たちの社会的関係の変化が発生する。前者は経験的科学的で後者は規範的道徳的である。

煙幕という言葉があるが、煙は真実を覆い隠す働きをする。登場人物達の苦悩は、罪は、恨みや憎しみは、「嘘」という「スモーク」で覆い隠さなければならない。その苦悩があまりにも強い場合には、自分自身に対しても「スモーク」で覆い隠さねばならない。それは人間が正気を保って生きていくために必要なものである。だから人々はタバコを吸うのだし、煙を吐かなければならないのだ。

「嘘」は作用と副作用をもたらす。作用は今まで述べてきたとおり、苦悩を忘れ、一時的にでもなかったことにすることによって、心を守る作用だ。副作用は、それが秘密になることによって孤独になることだ。嘘とは秘密である。嘘によって大きな苦悩から避けることができた心は、その代償として孤独という別の副作用を引き受けなければならない。

だから、嘘をつく人は、いつかどこかでその秘密を共有できる者を見つけたいと願う。この映画の登場人物達は、秘密を共有できる人を見つけることができる、思いやりがあって、優しく、賢い人々だった。

この映画は人々の嘘が次第次第に明らかになり各人に共有されるプロセスが描かれている。それらの嘘の全てに関わり、全ての真実を知るものが、タバコ屋の主人オーギーである。映画のラストは、そのオーギーが、かつて自分がついた嘘がもたらした結果を、信頼する友であるポールに打ち明けることによって完結するのである。これで全ての真実が明らかになり、映画の観客、鑑賞者である私たちに知られることになる。鑑賞者は皆、彼らの苦悩を共有するのだ。鑑賞者は彼らの苦悩を一時的にでも引き受け、一緒に悩む者になる。彼らの人生の苦しみが他人事ではなくなる。

この映画は、そのようにして鑑賞者の心をゆさぶる映画なのである。

【映画】『白夜』 ルキーノ・ヴィスコンティ 1957年

Wikipediaにある「ナポリタン」という記事によると、ナポリタンスパゲティはイタリアのナポリで食べられているパスタとは何の関係もないそうだ。ナポリタンに限らず、焼き餃子やカレーライスの様に外国の料理が他国に渡って全く異なる味付けになるというのはよくある話であるが、これは文学や映画の世界でもよく起こる。

ヴェニスに死す』のヴィスコンティが監督した映画『白夜』の原作はドストエフスキーである。でもこの映画は、ナポリタンスパゲティがイタリアのものではなく和風の料理であるのと同じで、全くドストエフスキー的ではなく、いかにもイタリア風に味付けされた作品である。

主人公のマリオは設定では孤独な青年らしいのだが、イケメンで女性からはモテモテだし、意中の女性に果敢にアタックする極めて積極的な肉食系青年である。もういかにもイタリア人らしい情熱っぷりである。こんな主人公に、ドストエフスキーの登場人物らしさは見受けられない。

ストーリーは決して明るいものではないはずなのだが、観終わったあとに全てをやりきった爽やかさが漂うのはいかがなものか。爽やかさにドストエフスキーは似合わない。強いて言えば、『罪と罰』などは爽やかな終わり方といえるかも知れないが、ラスコーリニコフはかなり屈折した青年であって、この映画の主人公のように「女性を情熱的に求めて愛して一直線」という感じではない。

男はつらいよ』の次にこの映画を観ると、あまりのギャップにクラクラする。寅さんはこういう映画を見て、女性に対する情熱的なアタックの仕方を勉強すれば、48回もフラれることなく一度くらいは成功したのではないだろうか。

とは言ってもこの映画には面白い見どころが沢山ある。

イタリアの港町のセット、主人公が住んでいる寮の様子、口は悪くて機関銃のように喋るが面倒見の良いおばさん、ヒロインであるナタリアの、まるで風の谷のナウシカに出てくる大ばば様のような祖母、登場人物達のビシっときめたかっこいいファッション、情熱的で激しいダンスシーン、二人の顔が超ドアップで映る、昔の欧米映画らしいラブシーンのカメラワーク、初対面からメッチャ距離が近い男女関係、喜怒哀楽が激しく泣いたり笑ったり忙しい、情緒不安定で面倒くさそうな、だがアイドルのような笑顔でとても愛くるしい美人のヒロイン・・・映画の楽しみが沢山詰まっている。

この映画もまた1950年代、パワフルな作品が沢山作られた黄金時代の作品である。昔の白黒映画を発掘して鑑賞する楽しみを十分味あわせてくれるイタリア映画である。

【映画】『続・男はつらいよ』 山田洋次 1969年

寅さんシリーズ第2作。マドンナは佐藤オリエ。佐藤オリエは賀来千香子に少し似た細身で知的な感じのする美人で、彫刻家の娘である。劇中では東野英治郎扮する退職者英語教師の娘、寅さんのかつての同級生の役であった。

寅さんの悲劇の一因は自分より社会階層が上の女性に熱を上げてしまうことである。下位階層の女性が上位階層の男性とくっつくいわゆる上昇婚はあっても、その逆は極めてまれだ。例外は男性が極めてイケメンであったり特殊な才能を持っていたりという、階層ギャップを埋めるような要素がある場合に限られる。

寅さんは階層ギャップを埋めるだけの明確なアドバンテージがなく、むしろブサイクという、恋愛にはかなり不利なハンデを背負っている存在なので、その恋は常に敗れるのである。

男性には恋愛向きの男性と恋愛不向きの男性がおり、もちろん寅さんは後者である。寅さんが上層階層の女性と恋愛しようとするのは、魚が空を飛ぼうとするようなものである。実際今回のマドンナの夏子も寅さんは男としては眼中になく自分より社会階層が同一以上の医者を相手に選ぶのである。

恋愛と結婚が一直線につながっていない時代は同一社会階層内でお見合いして結婚するのが主流であった。

お見合いは階層内の成員をマッチングさせて、つがいを組ませて再生産させることにより、社会階層を自己強化していく、自律的階層保全システムである。

社会はレイヤーに分かれているが、そのレイヤーを構成する単位は親族あるいは家族であり、同一レイヤーの家族同士が婚姻関係を結ぶことによってレイヤー内を補強することができる。政略結婚という言葉があるが、結婚というのは本質的に政略結婚である。だから政略結婚が意味をなさない社会では、結婚そのものがされなくなっていくのである。その意味では恋愛結婚は矛盾した概念であって、恋愛結婚の究極型は、恋愛も結婚もない社会である。恋愛と結婚の関係は物質と反物質に似ている。両者は融合することによって、対消滅する運命にある。現在はその過渡期である。

寅さんの時代は見合いから恋愛へ結婚形態が移行していく過渡期の初動であったため、その間に落ち込んだ寅さんは、永遠に結婚できない無限ループを繰り返さざるを得なかった。

1969年時点で38歳の設定の寅さんは、昭和6年生まれである。この時代には親に捨てられた子、妾の子、芸者の子というのはとてもありふれたものであった。そのように生まれたときから深い傷を負って、幼少から虐げられきた人間は、逃げたくても逃げられない自分、劣等な自分、愛されなかった自分にがっしりと捕まえられている。多くの人は死ぬまでそこから逃れられない。

寅さんの放浪癖というのは、劣等感から逃走する試みである。だが自分はどこに行っても自分についてくるものであって、そこから逃げることはできない。だから寅さんは柴又と各地の間の永遠の往復運動を繰り返すのである。

自罰的傾向があまりに強すぎるため、他者から愛される能力がそれによって相殺されてしまう。それが表現されているのが、寅さんが時折見せる「照れた表情」と「強がった乱暴な振る舞い」と「浮かれた大はしゃぎ」である。これらは自己肯定感が薄い人たちが見せる特徴的な行動様式である。『男はつらいよ』はこの3つのモードを、スイッチを切り替えながら行ったり来たりする寅さんを鑑賞し続ける映画なのである。

寅さんを、周囲の人々はいつもハラハラしながら見守っている。さくらもおいちゃんもおばちゃんもひろしもタコ社長も、寅さんに対しては礼儀正しく、暖かく、優しい。人から見下されるのがなによりもこたえる寅さんに対して彼らは決して上から目線にならず(御前様は例外である)、全てを無条件に受け入れる母親のような態度で接する。彼らがいなければ寅さんは生きては行けないであろう。

今回は寅さんの実母が登場するのだが、実母は母性で包み込むような人ではなく、頭の回転の良さと抜け目のなさを武器にして、世知辛い世の中をサバイバルしていく能力に長けた人である。寅さんが母から受け継いだのはこういった性質であった。

【映画】『フラッシュダンス』 エイドリアン・ライン Flashdance (1983)

ブルース・リーの『燃えよドラゴン』を観たあとは叫んだり闘ったりヌンチャクを振り回したくなる。『フラッシュダンス』を観たあとは体を揺すったりポーズを決めたり踊ったりしたくなる。これは身体に働きかける映画なのである。

ストーリーは単純で、時々衝動的に暴力を振るうボーダーライン気味の下層階級の女の子が、金持ちで社会的地位が高い恋人のコネを使って底辺から這い上がるチャンスを得る、という話である。よく似たモチーフの話にリチャード・ギアジュリア・ロバーツの『プリティ・ウーマン』があるが、両者とも、白馬にまたがった王子様が苦しい自分の境遇から救い出してくれるという女性の願望充足がテーマの、少女漫画的作品であるといえる。

下層階級が主人公で踊りが素敵な映画といえば『ウェストサイド・ストーリー』だが、あの映画と違うところは登場人物は踊るだけで歌わず、その替わりにダンサーのプロポーションや筋肉、性的魅力といった身体面が強調されるというところであろうか。

燃えよドラゴン』はブルース・リーの肉体と動作と圧倒的な強さが血湧き肉躍るものだったが、『フッシュダンス』は吹き替えダンサーやストリートダンサーの、アーティスティックでキレのあるカッコイイダンスが、鑑賞者に爽快感を与えるものになっている。

ビョークの『ダンサー・イン・ザ・ダーク』は暗闇の中から出ることなく地獄の底に沈んでいくダンス・ミュージカル映画だったが、『フラッシュダンス』は天国から垂れてきた蜘蛛の糸が煉獄での生活から脱出する機会をもたらしてくれる、希望のある映画であった。

「結果は実力でつかむもの、だが機会は平等に与えられるべきもの」という理念が理想通りに実現する、観ていて安心できる映画である。

【美術鑑賞】『クラーナハ展―500年後の誘惑』 国立西洋美術館

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前回訪れたときには咲き誇っていたイチョウの葉っぱを風が散らかしながら秋から冬に移行しつつある上野公園、世界文化遺産に登録が決まって絶好調の国立西洋美術館にクラナハの絵を観にいった。

世には、表向きは実名のFacebookで日々意識高い綺麗事やリア充な写真をアップしながら、裏では匿名のTwitterで毒舌や悪口や誹謗中傷や表向きにできない性癖や趣味をつぶやく人がいるそうだ。クラナハの絵も、表の絵と裏の絵があって、その両者ともがレベルが高く見ごたえがあるものである。

クラナハの表の作品で見応えがあるものは肖像画であって、神聖ローマ皇帝カール5世(カルロス1世)の肖像も、マルチン・ルターの肖像も、モデルのそのままの姿を足しもせず引きもせず表現した力強い作品である。クラナハ自身の自画像もそうなのだが、彼の描く肖像画は力強く威厳があって格好いい。

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私が特に好きなのは、ルターの肖像画である。これが見れただけでも、展覧会に行った価値はあった。

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クラナハの裏の作品は暗黒の背景に浮かび上がって冷酷な表情を浮かべる裸の女性である。クラナハの描く女性は冷酷である。これは女性の顔がことごとく目が細いことが影響している。細い目から投射される視線はナイフのように鑑賞者に飛んできて観るものを切り裂く。

だから裏作品で魅力的なのはユディトやサロメであって、彼女らは男の首を切り裂き、それを誇らしげに見せつけるのである。ユディトは達成感に満ち溢れたドヤ顔で、サロメは美味しい料理を作ってごちそうを見せびらかすときのような良い笑顔である。

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クラナハの裏絵のテーマであるエロスとタナトス、このテーマは神聖ローマ帝国が後世オーストリアとなったときのウィーン、19世紀末のウィーンに活躍した二人の人物、ジグムント・フロイトグスタフ・クリムトを直接に想起させる。

クリムトタナトスよりもエロスが、クラナハはエロスよりもタナトスが強調されている。二人の差は興味深く、クリムトの女性が性的誘惑を直接感じさせるものである一方、クラナハの女性は誘惑者というよりは魔女や鬼女的なオーラを放っている。

男は女に対して欲望と恐怖を持っている。クリムトは欲望を、クラナハは恐怖をそれぞれのパースペクティブから表現したものなのだろう。

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おまけ。カラヴァッジオのユディト。屠殺中である。

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【映画】『惑星ソラリス』 アンドレイ・タルコフスキー Солярис (1972)

ドイツの神聖ローマ帝国は1000年続いたが、ロシアのソビエト連邦は70年しか続かなかった。25年以上前に失われた帝国であるソ連が次第に伝説化してゆくなかで、ソ連製のSF映画というのは、人をワクワクさせるものがある。

最初に驚いたのは、1972年のソ連のSF映画に、日本の首都高の映像が使用されていたことだ。総武線、赤坂トンネル、飯倉出入口。当時首都高が未来的なイメージがあったためだそうだ。今と変わらぬ首都高に70年代の古い自動車が走っている姿は現代から観るとレトロな感じしかしないが、あの立体交差が複雑に絡み合う構造は、言われてみると昔の絵本とかによくあった未来都市イメージを含有している。首都高は高度経済成長期の日本がオリンピックの肝いりで作った、最先端の未来都市道路インフラだったのだ。

SFというのは哲学と神話を基本構成とするジャンルであって、この映画は黄泉の国訪問譚とスワンプマン的な同一性思考実験を組み合わせたものである。古事記イザナギイザナミに会うために黄泉の国に行く話があるが、それを思い起こさせるものがある。

神話のシンボリックな解釈、物語構造を人間の心の仕組みに還元する解釈はフロイトが始めてユングが好んで用いたアプローチだが、知識階級において精神分析が一世を風靡した20世紀の芸術作品は、精神分析的構造を物語の構成基盤に織り込むということをよくやる。この作品はSF作品に名を借りた精神分析的物語でもある。主人公が心理学者という設定なのもそれを暗示している。

SFというジャンルは19世紀のヴェルヌの冒険譚のころは、主人公が未知の外的世界に冒険や探検をしに行くものだったが、第二次世界大戦以降の後半は精神分析的手法を借りて内的世界を外的世界に投影するものに変化した。この映画もその変化にのっとったものだろう。

主人公が探求する「ソラリス」は黄泉の国=過去の世界=自分の心の中であり、フロイトによれば無意識の中には時間がなく、過去の出来事が当時の感情と一緒に保存されているのだから、そこではその人にとって最も感情的な衝撃の強い出来事や人物、つまりコンプレックスが保存されていることになる。

ソラリスの海はエス、そこから物質化されてくる記憶の形象はコンプレックス、海の中に現れる小島は自我。そのどれもこれもが人に大きな影響を与える母親(グレート・マザー)、父親(老賢者)、配偶者(アニマ)である。

人間は過去=コンプレックスから自由になることはできない。ましてやそれが後悔、怨恨、自責などのネガティブな感情と結びついている場合、それは決して死なないゾンビのように、何度も何度もたちあらわれてくる。主人公はそこから離れることができず、最後はソラリスの島の中に退行して実家に閉じこもってしまうのである。これは精神分析的な症状発現の機序そのものなのである。

ラストシーンの徐々にカメラが引いていく演出は、スピルバーグの『マイノリティ・リポート』のラストによく似ていて、スピルバーグはこの映画から引用したのかもしれないと思われる。この映画は過去に束縛されるSFだったが、あの映画は未来を変更するSFだった。

【美術鑑賞】 『ゴッホとゴーギャン展』 東京都美術館

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ゴッホとゴーギャン展

上野公園はイチョウの木の葉っぱが燃えるように色づいていて、まるで黄色い花が満開に咲き乱れているようだった。

ゴッホのメインカラーは黄色だったから、もし彼が秋のイチョウの木を描いていたら、さぞかし迫力のあるものになっただろう。

本展はゴッホゴーギャンが共同生活をしていたことを軸にペアリングした展覧会で両者ほぼ同数の作品が展示されている。

ゴッホゴーギャンはメインとする色使いが対照的で、ゴッホは寒い地方出身なのに、絵画では原色に近い鮮やかな色を重ねるが、ゴーギャンは南国に逃避したのに、くすんで渋い色づかいが多い。ゴーギャンはモミジやカエデのような赤さの色がお気に入りのようだったので、もし彼が今の季節の日本に来たら、紅葉の風景を彼独自の色彩で描いたであろう。

どちらかというとゴッホを目当てで行ったため、気に入った作品はゴッホのものばかりになった。

静物画、風景画、どれも良かったのだが、とりわけ気に入ったのは《ジョゼフ・ルーランの肖像》で、花を背負ったヒゲモジャのおじさんで、ヒゲがゴッホの渦々タッチでうねうね、眼はまつげが丁寧に描かれていて可愛らしく、どこかユーモラスで、色彩は鮮やかだった。

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それと複数の子供たちが絵の前で模写ができるサービスを利用して、無心に絵を描いている様がとても心温まるものだった。幼少の頃からこういう本物を模写して見る目を養えるのは、とても羨ましい環境である。彼、彼女らからアーティストが生まれるのだろうか。良い企画である。

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