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ジェントルかっぱのブログ

読書、映画、美術鑑賞

【美術鑑賞】『ミュシャ展』国立新美術館

美術鑑賞

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私がミュシャの存在を知ったのは、書店で本を買ったときにもらった栞に、『四つの時の流れ』『四つの花』が使用されていたのを目にした時だ。これらの連作は栞にするのにちょうどよい縦横比率になっている。

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そのときに抱いたのは、「ちょっとゴツい体形のおしゃれな美人画を描く人」という感想で、竹久夢二中原淳一と同類のイラストレーターだろうくらいに思っていた。

今回の展覧会は、そういう理解がとても浅いものであったということを教えられて、とても勉強になるものであった。

ミュシャは1860年(万延元年)生まれ、竹久夢二は1884年(明治17年)生まれ、中原淳一は1913年(大正2年)生まれである。今から思うと、竹久夢二中原淳一の方がミュシャの影響を受けていると考えた方がよかったのだ。ミュシャが生まれた1860年は、勝海舟福沢諭吉ジョン万次郎らが咸臨丸に乗ってアメリカへ向けて太平洋を横断した年である。

展覧会の受付から内部に入ると、『スラヴ叙事詩』の連作に包囲される。この連作はそれぞれの絵の巨大さが圧倒的な迫力を与える。描かれている人物は等身大である。かつてルーブル美術館に行った時、ダヴィッドの『ナポレオンの戴冠式』が想像以上に巨大で迫力があった(6.21m×9.79 m)。パンフレットの表紙にもなっている『原故郷のスラヴ民族』は6.1m×8.1mである。 f:id:ponshan:20170325121355p:plain

それぞれの絵は印象派のように光や空気を感じさせるものになっている。構図はかなり凝ったもので、テーマになる人物(皇帝、王、フスなど)は大きく描かれず遠くに描かれ、浮世絵の富士山のような扱いである。遠近法は西洋絵画の透視図法や、水墨画の空気遠近法を両方取り入れている。『ロシアの農奴制廃止』では空気遠近法がモスクワの寒くて冷たい空気や開放された人々の不安心理を多重に表現する効果をもたらしていて、とても印象に残るものだった。 

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また彫刻作品『ラ・ナチュール』は細身で鼻筋が通っていて顎が小さい女性像で、現代のファッションモデルやマネキン人形の様である。モデルはサラ・ベルナールクレオ・ド・メロードらしいが、さらに細い。やせ細った女性を美人とする価値観は、この頃から台頭しつつあったのであろうか。f:id:ponshan:20170325121518j:plain

奇妙な感想だが、ミュシャの作品を観ていると、「この人は絵がうまいなー」としきりに思うのだ。画家が絵がうまいのはあたりまえなのだが、ミュシャの場合技巧の卓越さがどうしても目につくのである。これは伊藤若冲葛飾北斎大友克洋のような人たちと似た系譜を感じる。技巧に加えてフェティッシュなこだわりもある。ミュシャミケランジェロロダンのように筋肉が好きである。特に痩せた筋肉が。

ミュシャという人は、幕末に生まれ、印象派、浮世絵、水墨画の様式を、圧倒的なデッサン力、画力で統合し、さまざまな技法を自在にあやつり、第一次大戦後の民族自決主義に影響された政治的テーマの大作を20年かけて描き続け、チェコに侵攻したナチス・ドイツに逮捕されて釈放後に死亡した、硬派の芸術家であった。

【映画】『七人の侍』黒澤明/志村喬/三船敏郎 1954年 東宝

映画

七人の侍』は、プロジェクトマネジメントの教材のような映画である。

プロジェクトは何らかの問題を解決するために行われる一連のプロセスである。

七人の侍』では、村に対する野武士による強奪が解決すべき問題として提示される。

最初にしなければならないのは、「ヒト・モノ・カネ」のリソース割り当てである。

「カネ」に相当するのは、今回の場合、村民による食料の提供である。

「モノ」は侍が持参する武器と、村にある一連の資材である。

「ヒト」は、まずプロジェクトを指揮するプロジェクトリーダーが必要で、これは志村喬演じる島田勘兵衛が担当する。メンバーは志村喬リクルートした6人、これに即席で訓練を施す村人男性陣が加わる。

プロジェクトのフェーズは野武士がくるまでの準備段階、野武士と戦う実践段階に分かれる。

準備段階では、リーダーの志村喬が現状を視察して確認し、プロジェクト計画書を作る。プロジェクト計画書は2つに別れている。一つは村全体の地図で、全体の戦略を立案するための最重要資料である。全ての作戦はこの資料をもとにして立てられる。もう一つはプロジェクトの組織図であり、これは平八が軍旗として作成する。

プロジェクトは成果物の作成によって終了する。今回の成果物は野武士団の命を奪うことである。この成果物リストは勘兵衛が作成する。これは地図の脇に書かれた40個の丸であり、一つの丸が一人の野武士を表す。

勘兵衛は敵を一人討ち取る毎にこの丸をバツにしていく、つまりタスク管理のチェックリストを兼ねているのだが、これがこの映画を見ていてプロジェクトっぽいなーと感じるところである。

今回の戦いで特徴的なのは、これが殲滅戦でありかつ総力戦だということである。勝利は敵の大将の首を取ることではなく、敵を一人残らず殺すことである。戦うのは武士だけではなく農民も一緒である。敵を一人ひとり中におびき入れて集団で討ち取る方式は、戦闘慣れしていない農民の戦闘力を十分に引き出すために勘兵衛が立案した優れた方式である。ただ、自軍が壊滅的な打撃を受けるまで、飛んで火に入る夏の虫のように殺されるために村に突入してくる、野武士達のマヌケっぷりは、まるでハリウッド映画で描かれるドイツ軍のようである。

もう一つ作戦として優れているのは決戦の前に行う夜襲である。事前に敵に打撃を与え一人でも多く殺すために行うゲリラ戦で、平八の戦死を出しながらも、野武士達のマヌケっぷりによりなんとか目的を達成する。

七人の侍』は三船敏郎が主人公的な扱いで、それはパッケージ写真などでの扱いからも察せられるのだが、私としてはこの映画の主人公は志村喬としたい。

経験豊富なプロジェクトリーダーが指揮したプロジェクトが目的を達成する物語としてこの映画を観ると、三船敏郎は個性的な選手かも知れないが、チームを指揮する志村喬監督の采配が、この戦いを勝利に導くために大きな役割を果たしたと思うのである。

なお今回新鮮な発見だったのは、イケメン若武者の勝四郎を演じた俳優が、『雪国』で岩下志麻の相手役を演じた木村功の若かりし姿だったということである。こういうのも昔の映画を漁って得られる楽しい発見の一つである。

【映画】『雪国』 岩下志麻/加賀まりこ 1965年 - ジェントルかっぱのブログ

【映画】『赤ひげ』黒澤明/三船敏郎/加山雄三 1965年 東宝

映画

昭和後期の1970年代、テレビではゴールデンタイムに必ず時代劇をやっていた。その中でも松下幸之助のナショナルがスポンサーをしていたものは『水戸黄門』が有名だが、他にも著名なものとして『大岡越前』がある。真面目なインテリ風の加藤剛南町奉行大岡忠相の役をしていたのだが、加藤の親友役でレギュラー出演していたのが、竹脇無我演ずる榊原伊織である。榊原伊織はおそらく架空の人物であるが、小石川養生所の医師として大岡忠相の相談にのったりアドバイスをしたりする立ち位置であった。時代設定は享保年間であり、徳川吉宗山口崇が演じていた。

八代将軍徳川吉宗が将軍に就任したのが1716年、大岡忠相南町奉行に就任したのはその翌年の1717年、今年は大岡忠相南町奉行に就任してから300年の節目の年なのである。

吉宗が行った政策の中で有名なものに「目安箱」があるが、この目安箱に貧民用の無料病院を作るように投書したのが町医者の小川笙船であり、彼が「赤ひげ」のモデルなのである。小川の投書を受けた吉宗は大川に検討を命じ、そして建設されたのが小石川養生所であった。

1716年(享保元年) 徳川吉宗 第八代将軍に就任

1717年(亨保2年) 大岡忠相 江戸町奉行に就任

1721年(亨保6年) 徳川吉宗 目安箱を設置

1722年(享保7年) 小石川養生所開設

映画は1965年と比較的新しいながら白黒の作品である。

中心の役者は三船敏郎加山雄三だが、この組み合わせは『椿三十郎』と同じである。役どころも、主人公の赤ひげは乱暴な口調、ぶっきら棒な態度、やたら喧嘩に強いなど、椿三十郎とかぶるところがある。加山雄三も、良いところのお坊ちゃんで秀才で真面目で、最初は反発しているが、次第に三船敏郎に私淑して行って師と仰ぐようになるところなど、共通点が多い。

他の役者で存在感があるのは娼家の女主人役の杉村春子である。この人は「日本の口やかましいおばちゃん」をやらせたら右に出るものがいない。また杉村春子にいじめられていたが養生所に保護される少女のおとよ役の二木てるみも素晴らしい。その他チョイ役として志村喬笠智衆、エピソード内主役として山崎努、脇役として東野英治郎と、小津俳優と黒澤俳優が多数出演している。

3時間の大作で、途中で休憩タイムが入る構成になっている。休憩の前半と後半では作品の雰囲気が変わるのだが、これは前半を山本周五郎原作により、後半をドストエフスキー原作によったためだろうか。前半の狂女のエピソードは、漱石夢十夜のような怪奇な雰囲気がある。後半のおとよのエピソードは、人間性回復や自立といったテーマが色濃くなっている。

黒澤作品はエンタメ作品としてとても良くできているためいつも安心して鑑賞できる。

【番外編】国立科学博物館 常設展 上野恩賜公園

番外編

東京にある繁華街では新宿、渋谷が著名であるが、それらの追随を許さない圧倒的な立ち位置を持っているのが、上野である。これはそれぞれの出自からくる差であって、新宿は地名から推測できるように甲州街道の宿場町、渋谷は円山町のラブホテル街から推察できるように花街をその出自とする。

都市が発展するときにその発展の方向性を決めるのが「人の流れ」と「そこに流れる人々の階層」である。宿場町はターミナルとして人々が交通する場所であるから人が流れる。街道を交通できるのは一定層の身分と所得がある人間だから中流以上の人間が多くなる。新宿は中流階級の町であった。

渋谷は地名からわかるように谷底の地形である。人間社会の法則として、上位階層の者は地理的に高いところに住み、下位階層の者は地理的に低いところに住む。タワーマンションでも上位階は高所得者が住む。渋谷が元々は社会的に底辺の人間たちが住み働く所であったのは、この法則によるのである。渋谷は下層階級の町であった。花街は吉原とか永井荷風の『墨東綺譚』の舞台である玉の井とか、いずれも低い場所である。

では上野はどうか。あそこは山であるから、身分の高い人間の住む場所なのである。誰が住む場所なのか。そこは徳川家の代々将軍の霊が住むところだったのだ。200年以上日本を支配した一族の死者が祀られる場所、徳川将軍家菩提寺である寛永寺の境内、それが上野の出自なのである。

だから上野は元々中流階級でも下層階級でもなく、上層の特権階級の為の場所であった。その歴史的な文脈が、日本一の美術館、博物館、音楽堂の集中をもたらしたのである。現代の私達は、上野に行けばいわゆる「本物」の、古典的な文化、芸術に出会うことができる。それも徳川の威光が現代まで余波として続いているからなのである。

 

上野にある文化施設の中で比較的奥まったところにあり、地味なイメージがあるのが国立科学博物館である。だがこの施設が取り扱うジャンルは幅広い。ここは「日本館」と「地球館」に別れているのだが今回は日本館には手が回らず、「地球館」を鑑賞するに留まった。

今回は3階からB2階へと降りる形で巡回したのだが、3階の展示エリアに入った途端に度肝を抜かれた。そこにあったのは大量の動物の剥製、剥製、剥製。説明書きによると、日系アメリカ人のヨシモトという大富豪が、世界中で動物を自分で狩猟して、剥製にして、コレクションしていたものだったそうである。

それを読んで連想したのはオーソン・ウェルズの『市民ケーン』で、ケーンはその屋敷に世界中の彫刻をコレクションしていたのであるが、このヨシモトという人は、ケーンどころではないスケールの「趣味」を持った人であった。現代の動物愛護的な価値観から観ると、大量の動物の剥製は残酷で不道徳なものに見えるが、「科学的」な資料としては、これは一級品である。いつか稿を改めて論じてみたいのだが、科学というのは本質的にその中に残虐性を持っているのである。

2階は科学技術の歴史についての展示があり、江戸時代の和算、万年時計、木製の骨格標本、大正時代の自動車の復元、零式戦闘機、真空管コンピューター、ロケットエンジンなど、幅広く興味深いことこの上ない。

また日本人ノーベル賞受賞者を表彰する特別コーナーがあり、一人ひとりの業績の解説、年表が展示されていた。

年表を見て気づいたのは、2000年頃からノーベル賞受賞者ラッシュが起きていることである。その象徴的存在である田中耕一さんは1959年生まれ、1983年島津製作所入社である。私は1950年から1980年の間の30年間は日本史上の「奇跡の30年」と考えている。田中さんはその世代の申し子なのだ。その30年間に蓄積されたものが一気に花開いたのが2000年代のノーベル賞ラッシュではなかったかと思う。桜の花の命は短い。現代の日本の状況を考えると、自然科学分野で、日本国内で研究する日本人がノーベル賞を受賞するのは無理になっていくであろう。

 

ドナルド・トランプは1950年代のアメリカを「Great」と位置づけ、その時代のアメリカの繁栄を復活させることを「Make America Great Again」と呼んだ。日本もいずれ、1950年から1980年の黄金の繁栄を懐かしみ、模範として復活させようとする運動が立ち上がってくるだろう。それは池田勇人田中角栄、特に田中角栄の再評価という形で現れるのではなかろうか。1950年代がいかにエネルギッシュで希望に溢れた時代であったかは、その当時に作られた映画を鑑賞すると、わかってくる。

私が常々不思議に思っているのは、ノーベル賞はなぜこんなに権威を持っているのか、どのような経緯でそのようになったのか、ということである。権威の正当性の由来がまるで不明なのである。現代ではノーベル賞を受賞すると、まるで人類の偉人の仲間入りをしたかのようだが、一体誰がそのように決めたのか。ノーベルが巨万の富を築くことができたのは戦争のおかげである。ダイナマイトを使用した大規模戦闘が行われたのが20世紀の戦争で、例えば戦闘にダイナマイトが使用された日露戦争の旅順攻略戦は1904年である。最初のノーベル賞が発表されたのは1901年である。ノーベル賞は本来的に20世紀のものだ。

 

1階の展示で特筆すべきは、系統樹と標本の展示である。床に生物の系統樹が描かれ、その先にはそれらの生物の実際の標本が大量に展示されているのだ。この展示には圧倒された。特に印象に残ったのは蝶の標本で、蝶の羽根模様の多様性、美しさ、デザイン性、これは一体何なのだ。誰が蝶をデザインしたのか、本当に神のような超越的存在はいないのか、生物進化とは何なのか。様々な困惑と驚きと考察をもたらしてくれる、非常に優れた展示であった。

B1は言わずと知れた恐竜の標本、ティラノサウルストリケラトプス、ステゴザウルス、ブロントザウルスである。トリケラトプスが思った以上に巨大である。

B2は化石、化石、化石。さまざまな古代生物の化石に取り囲まれる。その中でも特別な枠を設けられているのが三葉虫である。三葉虫ミュージアムショップで大判小判のような大小様々な標本が販売されており、その愛されっぷりはただ事ではない。三葉虫アンモナイトは古生物界の2大スターだ。

ミュージアムショップで販売されているグッズでユニークなのは、三葉虫アンモナイトの化石、鉱物などだが、ビーカーやフラスコなどの実験器具が売られているのも面白い。

 

上野という場所は、現代の世俗から距離をおいたところで、様々な時空のレベルにおける多様な価値観に触れることができる場所である。実はその価値観は現代社会で私達がどっぷり浸かっているものとはかなり異質なもので、危険ですらある。上野はタイムマシーンであり、テレポテーションマシーンである。上野に行けば私たちはたやすく時空を飛び越えることができる。上野はドラえもんなのだ。

その中でも国立科学博物館は、古生物から宇宙、進化、工業、技術と、とてつもなく広大なジャンルを網羅してコンパクトにまとめた、知の殿堂である。国立科学博物館は人に自分の無知を自覚させ、あまりにも謎の深いこの世界の様相に戦慄を覚えさしめる。国立科学博物館は、知的スペクタクルを提供してくれる、高品質のエンタテイメント施設である。

【映画】『沈黙』 遠藤周作/マーティン・スコセッシ 2017年 パラマウント/KADOKAWA

映画

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この映画の最大の見所は、俳優の演技、特に井上筑後守を演じたイッセー尾形の素晴らしい演技である。イッセー尾形というとコミカルな一人芝居が有名で、映画ではあまり見ない俳優である。

一見何も考えていないように見えて、実のところ鋭い分析力と戦略、戦術を兼ね備えた、いわば刑事コロンボのようなキャラを持つ井上筑後守ロドリゴ神父との思想的対決のシーンが、とても見応えのあるものであった。

また近年、『野火』『シン・ゴジラ』など話題作でことごとくお目にかかっているのが塚本晋也監督で、この人はおそらくマゾの気があるのだろうが、いじめられたり虐げられたリする役が、とても似合うのである。今回のモキチは、田村一等兵をはるかに凌ぐ悲惨さであった。

フェレイラ神父役のリーアム・ニーソンは、『シンドラーのリスト』でシンドラーを演じた人で、映画を見終わって調べるまでは全くそこは気づかなかった。フェレイラ神父の生き様は、虐殺される人々を守るために自らの身を守りながらも力を尽くす点で、シンドラーと重なるところがなくもない。

「初老のおじさん」が光り輝くことができる稀有な職業の一つが、映画俳優であろう。

 私がキリシタンの歴史について初めて触れたのはレオン・パジェスの『日本切支丹宗門史』で、岩波文庫で3巻に及ぶ大作であるが、延々と続く拷問と虐殺と処刑の記述を読んで、かなりの精神的ダメージを受けた。その時に強い印象をもったのは例の逆さ吊りの拷問(映画の中では拷問方法に「改良」が加えられて、かなり洗練したバージョンのものになっている)で、切支丹に対する拷問といえば逆さ吊りがイメージとして定着したものだった。

キリスト教徒迫害の物語でなんといっても思い出すのは、岩波文庫にも入っているヘンリク・シェンキェヴィチの『クオ・ヴァディス』である。あの小説では迫害を逃れてローマから逃避中のペテロの前にキリストが現れる。ペテロは「主よ、どちらに行かれる(quo vadis)のですか?」と問う。キリストは応える、「おまえが私の民を見捨てるなら、私はローマに行って今一度十字架にかかるであろう」と。それを聞いたペテロはローマに戻り、「逆さ十字架」にかけられて死亡するのである。そのペテロの墓の上に建てられたことになっているのがサン・ピエトロ大聖堂であり、ペテロは初代ローマ法王の位置づけなのである。かくの如く、カトリックと逆さ吊りは因縁が深い。

日本におけるキリシタンの迫害はヨーロッパにも絵付きで報道され、センセーショナルを巻き起こした。逆さ吊りで処刑されるカトリック教徒を見たヨーロッパの宣教師たちは、そこにペテロの姿を重ね合わせたかもしれない。それが、わざわざ危険を犯してまでも日本に来ようとする動機を燃えあがらせたのかもしれない。

この映画でもクライマックスに、ロドリゴ神父に対してキリストが語りかける。そしてその言葉はとても感動的で、「慈悲」にあふれている。その言葉と、『クオ・ヴァディス』におけるキリストの言葉の違いこそが、ヨーロッパ人と日本人のキリスト教に対する捉え方の違いを、浮き彫りにしているのである。シェンキェヴィチはポーランドの作家である。

岩波文庫で読める「虐殺記録もの」では、ラス・カサスの『インディアスの破壊についての簡潔な報告』が、カトリック宣教師を含むスペイン人がアメリカでおこなった拷問、虐殺、部族皆殺し、奴隷化の蛮行を現代に伝えている。あまりの残虐さに読者がかなり苦しい思いをする史料になっている。

 『沈黙』は史実をかなり取り入れて創作された小説で、井上筑後守もフェレイラ神父も岡本三右衛門も実在の人物である。『沈黙』は、コロンブスのアメリカ大陸到達とルターの宗教改革とから始まる歴史的な流れを抑えながら理解する必要がある。

対抗宗教改革とスペイン・ポルトガルの侵略政策が結びついたカトリックの伝道活動は、グローバリズムの一種である。現代のグローバリズムを支えるイデオロギー新自由主義だが、当時のグローバリズムを支えるイデオロギーは、普遍主義だった(映画内でもロドリゴは布教活動の理由として「真理」と「普遍」を挙げている)。新自由主義も一種の普遍主義であるので、500年前の歴史が形を変えて現代も繰り返されていると言える。

グローバリズムに対抗するために、当時の日本政府が取った対策は、自由貿易の否定と、それを支えるイデオロギーの根絶であった。そのイデオロギーとはイエズス会を代表するカトリック的普遍主義である。「真理」と「普遍」を強固に主張するロドリゴ神父に対する井上筑後守の反論も、「日本に普遍主義はなじまない」という論旨で一貫している。近年、日本史の教科書から「鎖国」の文字が外されつつあるが、それもイデオロギー歴史認識を侵食する典型例である。いつの日か新自由主義が否定される時代がくるのは、太陽が明日も昇るのと同じくらい確実だが、その時には「鎖国」の文字が教科書に復活するだろうか。

 キリスト教はもともとユダヤ教の新派であり、普遍主義は含まれていなかった。普遍主義はプラトンの哲学を源流とする。キリスト教に普遍主義を接続させたのは、アンセルムスやトマス・アクィナスなどの中世の神学者たちである。現代世界で「自由主義」の後釜の「新自由主義」が大流行しているのと同様に、宗教改革後のルネッサンス期では「プラトン主義」の後釜のプロティノスの「新プラトン主義」が大流行で、当時のヨーロッパではグローバリズムへの正当化を支えるイデオロギーが広く深く受け入れられていた。それを支援したのが、あのメディチ家である。

余談ではあるが、中世でアンセルムスの実在論とオッカムの唯名論を「統合」したのがトマス・アクィナスで、この図式は近代において、デカルトの合理論とヒュームの経験論を「統合」したカントの流れとパラレルである。19世紀から21世紀にかけてはこの図式は経済政策の分野で継承されていて、共産主義vs資本主義、ケインズ主義vs新自由主義財政支出vs金融緩和、トランプvsリベラリズムという形で変奏されている。

中世は「キリスト教の神」が神に(だからトマス・アクィナスの主著は神学大全なのである)、近代は「理性」が神に(だからカントの主著は純粋「理性」批判なのである)、現代は「金」が神に(だからケインズの主著は雇用と利子とお金の一般理論なのである)なっただけである。

いずれも、その時代の神をめぐる戦いなのである。「神」はそもそも「イデア」界に存在するものなので(これこそがプラトンが人類に与えた贈り物である)、「神」をめぐる戦いは全て「イデオロギー」の戦いである。

「金」という現代の神をめぐる戦いを「統合」する思想家は現れるだろうか。トランプは政治家なので統合はしない。彼の役割はこの対立図式を目に見えやすく浮き立たさせることである。

 閑話休題。プリミティブなキリスト教は、神のみが一番えらい存在なので、世俗の権力には不服従になる(現代において資産家が国民国家に対して不服従なのとパラレルである。資産家にとって一番えらいのは国民国家ではなく自分の金である)。キリスト教徒は幕府の政策に従わない。宣教師達はそれを煽っている。キリスト教イデオロギー的支柱になった最大の反乱が、キリシタン天草四郎が主導した島原の乱である。ここに、幕府による迫害が苛烈化した理由の一旦がある。

 キリシタン大名の保護を受けた天正遣欧少年使節でローマに渡った中浦ジュリアンは、それから51年後にフェレイラ神父とともに穴吊り拷問にかけられ死亡、フェレイラは映画で描かれているように棄教し、沢野忠庵になった。キリシタンの運命は50年で180度変わったのである。

1492年 コロンブス、アメリカ大陸到達、現地人の虐殺開始
1514年 ラス・カサス、良心の呵責に耐えかねて、自己所有の奴隷を解放
1517年 ルター、宗教改革開始
1521年 マゼラン、世界一周
1529年 ポルトガルとスペイン、サラゴサ条約を締結
1534年 ザビエルとロヨラ宗教改革に対抗してイエズス会を創設
1549年 ザビエル、日本に到着
1582年 中浦ジュリアン天正遣欧少年使節、ローマへ派遣
1587年 秀吉、バテレン追放令
1596年 秀吉、キリスト教徒26名を処刑する
1612年 家康、キリスト禁教令
1622年 元和の大殉教、55人が火刑または斬首となる
1632年 井上筑後守江戸幕府大目付になる
1633年 フェレイラ神父、長崎で捕らえられる、中浦ジュリアンは穴吊り拷問で死亡する
1637年 島原の乱勃発
1639年 ポルトガル人追放、鎖国の開始
1643年 キアラ神父(ロドリゴのモデル)、長崎で捕らえられる

 

【映画】『顔』 岡田茉莉子/笠智衆 1957年 松竹

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松本清張太宰治が同い年だと知ったとき、太宰治は過去の作家ではなく現代の作家なんだ、と新鮮な気持ちになったものだった。

この映画は、夥しい数が映画化されている清張作品のうちでも、最初の映画化作品である。

見どころは当時24歳の岡田茉莉子のとんでもない美貌、昭和30年代のレトロな風景、当時の人々の髪型やファッション、東京のネオン、可愛らしいデザインの自動車、電車などである。

『雪国』の岩下志麻もそうだったが、映画女優が遺伝子レベルでの真のエリートであった時代の女優の美人っぷりは神がかっている。演劇風の大げさな身振りや感情表現をする岡田茉莉子の、ワイルドな表情変化をたっぷり楽しむことができる。

事件の目撃者でキーを握る石岡を刑事たちが尾行するシーンがあるが、そこで現在「有楽コンコース」になっている有楽町のレトロなガード下を、彼らは通過するのである。そのシーンになったらすぐに、「あ、ここは有楽町のあそこだ!昔はこんなんだったのか」と気づいた。

有楽町駅ガード下 昭和レトロ ( 散歩 ) - bashou007のブログ - Yahoo!ブログ

次のカットでは改札に入り、ホームに上って、電車にのるシーンが続く。これは有楽町駅であろう。レトロな山手線が入ってくる。それにしても、ガード下のあの形状以外は、有楽町も様変わりしてしまったものである。

笠智衆は鬼刑事という設定だったらしいが、笠智衆で鬼の雰囲気は微塵も出ず、ほのぼのとした味わいのある刑事に見えてしまうのであった。

1950年代黄金期の映画界の活力を感じられる作品である。

ところで、淀川長治松本清張太宰治と同い年であった。淀川長治は、まさに映画黄金期の申し子であったのだ。

【映画】『黒猫・白猫』 エミール・クストリッツァ 1998年 Black Cat, White Cat

映画

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ジプシーとユダヤ人はヨーロッパの歴史の中で、とても嫌われてきたことで有名な民族である。ユダヤ人は多数の実業家、政治家、学者、芸術家を輩出したり、第二次世界大戦を経て独立国家を持ったりして昔よりマシな待遇を受けているが、ジプシーはそんなことはなく、今でも盗みで生計をたてているチンピラ、ゴロツキ民族として害虫の様に扱われている。ヨーロッパに旅行に行ったらジプシーは警戒対象である。だからジプシーを取り扱った作品に出会うのはまれで、この映画はそのまれな作品の一つである。

クストリッツァ監督の大作『アンダーグラウンド』は最初から最後まで高テンションのまま走り抜ける作品で、観たあとにドッと疲れるものだった。この『黒猫・白猫』も同じで、音楽で例えれば第1楽章をアレグロ、第2楽章をアレグロ アッサイ、第3楽章をヴィヴァーチェ、第4楽章をプレストで演奏するようなものである。もしそんな曲を聴いたら終わったあとにぐったりしてしまうであろう。この映画はあらゆる登場人物が躁状態で暴れて、音楽も鳴りっぱなし、狂乱コントと呼んで良い映画であった。

ドリフのコントはテンポが早く、物が破壊されたり、登場人物がキチガイじみた行動をするものであったが、この映画は2時間以上ずっと、ブラックなドリフのコントをやっているようなものである。

この映画で描かれるジプシーは無法者でチンピラの人たちばかりなのだが、裏を返せばそれはたくましく、エネルギッシュだということである。この映画の登場人物はめげたり落ち込んだりすることがない。死体ですらおもちゃのように扱ってしまうのである。

ヒロイン役のイダが、気が強くてストレートでワイルドな女性で、ジプシーをテーマにした最も有名な作品『カルメン』のカルメンのようなイメージで、気の強いジプシー女のテンプレにとてもよく当てはまっていた。作品制作にあたってカルメンはそうとう意識されたのであろう。

全編、あまりにテンションが高く、ブラックすぎて日本人には笑いのツボになりにくいギャグが満載であったが、ガチョウで体を拭くシーンは本当におかしくて笑った。生きたガチョウをタオル替わりにして体を拭くというのは、それが仕方のないシチュエーションだったとは言え「そういう使い方があったか!」とかなりオリジナル性の高いギャグであった。

あとアマゾンで売られているDVDのパッケージは、「よりによって、そりゃないだろう」とあまりにもひどいシーンを使用したものである。日本の販売元は少し悪ノリしすぎではないだろうか、英語版DVDのパッケージはおしゃれに可愛く仕上がっているのに。

なお映画中に黒猫と白猫はちゃんと登場し、そしてとてもかわいい。